(無題) ―洛陽『反文学論』




 昨日も上野公園を歩いていた。御徒町に近い食堂に辞書と本を忘れてきてしまったので、まずそちらへ行ってから忘れ物を受け取り感謝の言葉を述べて店を出、西郷隆盛像のあるほうから上野公園へ入りこみ、大学への道を急いだ。その途中で、水の底を歩いているような感覚に襲われた。なんだろうと思って歩みをゆるめると、ぼくの歩いていた道いっぱいに木洩れ陽が落ちているのに気づいた。

 よく似た光景を見たことがあった。プールにもぐって、水面から遠く、底のほうを進んでいったとき、出会うあの光彩のゆらめき。影がいくつもの濃淡をともなって、決してとどまることなく、その動き自体が時間のささめきをあらわしているかのように、いつまでもぼくの眼球を犯すあのやわらかなもの。
 携帯電話についているカメラで撮影し、ひとときたたずんだのち、歩き出しながら、ぼくは洛陽『反文学論』の数行を思い出していた。
 この詩のおかれている頁を開いてほしい。文字の向こうに何が見えるだろう。洛陽さんの描いた絵、そこにうつりこんでいる、たくさんの円。

  恋の好きな人が死んでしまった
  ぼくはそれでいいと思った
  美しいのは
  日時計があまりにもたくさんの影をつくった   (同題より抜粋)

 ロマンチックな書き出しだ、しかしそれはともかくとして。
 ここでは、「日時計」の「つくった」「影」はひとつの平面上に、無数にある。一本のちいさな柱から、「影」が「たくさん」伸びている。ある時間の流れにおいて連続的に動いていったはずの、そのちいさな柱の「影」の一コマ一コマのすべてが、ふたたびいまここの同じ場所に描きなおされて現れる。「日時計」の「影」がこのように「あまりにもたくさん」あるとき、それを映し出した太陽もまた「あまりにもたくさん」あるのだ。そしてその総体が伝えているのは、無数の断片的な過去が、ひとつの平面上に描きなおされうるような時間または場所の存在だ。
 あるかけがえのない出来事が思い出としてよみがえってくるとき、その出来事は残像や残響として、しかしあらたな出来事として、いまここでふたたび繰り返されている。それはおそらくどこか遠い場所で無限に繰り返されていて、そしてその無限の反復の場所から届けられてきた光によるものが、この「日時計」の「つくった」「たくさんの影」だ。
 この「日時計」が示しているのは断片化された時間のことではなく、連続したフィルムでもない。「あまりにもたくさんの」時間を一度に示していて、そしてそれらがすべて、このすっくと立っている一本の「日時計」に帰せられている。
 ところで「死んでしまった」「恋の好きな人」の立ち姿も、このようだったのではないか。その人もまたあまりにもたくさんの太陽に、時間に、この「日時計」と同じように照らされてきていたはずだ。そしてその姿もまた、「美しい」はずだ。「死んでしまった」からといって嘆くよりも先に確認しておかなければならない。そのひとは、「美しい」、だろう。

 携帯で写真を撮ったとき、ぼくは、ぼくが見ている木洩れ陽のゆらめきの一瞬一瞬をすべて同じ場所に描き出すことができたらと考えていた。しかしほんとうはそんなことを写真にしなくてもいい。ぼくのうちにそれは取り込まれ、やがてぼくの心の内面において、あまりにもたくさんの光彩と影とがあらわれてくる。それは無限の場所からもたらされたたくさんの太陽の光が照らし出している、いくつかの、たったひとつの木のそれぞれを――たったひとつの、出来事を――あらわにするのだ。