純情猫詩篇



 果てない青い青い空間、そこに梯子ひとつ。また頼りなく、昇っていくだけの、男。うえのほうはぐらぐらとしている、手がつかむ梯子の。下はどうなっているか、(私はここに書きたいのだが、)男には見ること、が、できない。おそらく覗き込めば恐怖して手が震えて離れてまっさかさま、だ。それならばと男は上ばかり向いている。
 そんなあるとき、目の前に足が現れた。ギョッとして男、あやうく手を離し滑り落ちそうになったが、おやすごい集中力!…で二段ほどずり落ちたのみ、しっかりと手をひっかけてとどまった。足ぶらぶら。あぶねぇ、あぶねぇ。こんなことは初めてだもんで、男、やいこの足め、びっくりするじゃねぇか馬鹿野郎畜生ホーレイショとばかりに罵り、しかしよく見ると、足は女物の靴を履いている。赤い赤いハイヒール、うえに目をやるにつけ、すらりとした曲線、踝のきゅっとしまったくびれ、脹脛のししゃもから膝裏のすじ、白い腿のひらきかけた様までもが見えかけ、だが、あいにく雲がお約束どおりに通りかかっていて、そこから上は見ることが出来ない。男、目をこらすが。ごしごし。ごしごし。
 どちらさま。と声が降り、男はっとして我に返る。っ、ああ、名乗る者ではないが、おれァ下から昇ってきたんだ。あんた、そこ邪魔だよ。よかったら来た道戻ってくんねえかな。
 来た道って、あたしもやだよ、あたし上から降りてきたんだもの。あんたこそ、そこ邪魔だよ。男だろ、どいてくんない。蓮っ葉な口調で、女。けっきょく似非フェミニストってやつはこういうときばっかりは男だろなどと言ったりするものだ。実はこの文章のテーマはそこにある。
 男、そんな解説をよそに、生来のジコチューゆえかいったんはひどく腹が立ったくせに、男だろと言われてのらないのは男が廃るとばかり、…その葛藤に身悶えするでもなく、意外とあっさりとひいた。くるりと手を回し、梯子の裏側に体ごと回る。っ、しょうがねえな、おらよ。もちろん、うつくしい足のことが頭になかったわけでもない。
 うれしい。女、それだけ小さくいうとハイヒールの赤を下へ下へと運ぶ。うれしいってか。ああ、今までこんな履きにくい靴で降りてきたんだな、難儀なことだ。下へ着いたら、おめぇさんどこに行くんだ。そう声をかけたかった、男は梯子の裏側から、それを見ていた。水平に、みつめる。視線、すね、膝頭、やはり白い腿、ひらひらしたスカート、ああそう急ぐな、ゆっくりゆっくり、もうすこし見ていたい、…
 白いシャツとふくらんだ胸元にあこがれ、男がまどろみかけると、ついに女の面があらわれた。くびすじ、唇、ひとみ、うつくしく、すこし頬が上気している。目と目が、あう、白梅が脳裏に浮かび、男は呆然として。咄嗟に女が、
 くちづけ。
 まどろみ、束の間の。
 やがて女離れて。うつむいて、無言のままゆるゆると梯子にかけた手を動かし、下へ下へと。すこし広いひたい、つつましい黒髪、香り、からん。下へ下へと。男動けず。からん。まどろみ残るか。からん。もう一度、女よ、もう一度、しかし下を見ることはできない、恐怖して手を離してしまってはいけないから。はは、うれしいってか。からん。上を向いて。からん、言っておくれ。男動けず、男動けず。からん、下へ下へと、女よ、もう一度、
 からん、いっておくれよ、下へ下へと、からんからん。


  *


花恨みつづりし窓に文字ふたつ霜に残るや逆さのくちづけ

夏に洗いジーンズのポケットへ忘れた詩濡れはしても破れることなく

日付降る消えゆく森にて朽葉拾う一枚ずつに歌の名前を

鳥を聞きまどろみ落とす洗面器ひとみのふれし新しきになく

白梅香未だ聞かずや時雨にて咳き込むたびに透きとおるかな





(02/11/13)