[訳者註:コソヴォ紛争にNATOが介入した際の発言。]
 
サングイネーティ、戦争に反対する
 
 戦争は詩人たちの幻想をかきたてる。「しかし戦争を賛美する気のある左派の詩人がただのひとりでもいたことがありますか? マヤコフスキイは革命を祝ったが、しかし戦争は祝っていない。戦争の陶酔はダンヌンツィオやマリネッティのものだ。私は今一度ブレヒトと同じようにこう考える。不運なことに、英雄を必要とするのは大衆なのである、と。」[...]NATOの決定を支持したダレーマ政権のもと、戦争が矛盾の万力で左派を苦しめている今日において、サングイネーティは[イタリア共産党の]イングラーオに同調しながら言う。「私はカトリックの在家信者どころか信者ですらないが、[今は]ヴァチカンに賛成する。そう悪くないことに教会がある、おかげで事態は少し悪いだけだ。なかでも教皇は素晴らしい聴衆を誇り、彼らといえば右派のなかでも左派の意見を語っている」
 戦争は紛争解決の手段であるとイタリア憲法が定めているのにもはや誰もそれを考えていないのではないか、という旨を述べたイングラーオに賛成するべきだとサングイネーティは考えている。「みな無関心だ。今朝バールへ朝食を食べに行って、大学で学生や同僚と話した。誰も私にこう言わないんだ、コソヴォで起こっていることを知ってますか? と。幸運なことに、砂漠で叫んでいるひとびとがまだいくらかいる。真の戦争はプライヴェート・ライアンを観るために映画館へ行くようなものではない」
 [右派のうち]リベラリズムを仲間に引き入れることができる左派の一方からの反発があるせいで、ひとびとは、戦争に直面している現在、政権を支持する者の現実主義と、反リベラリズムの主張とに避けがたくわかれてしまう。サングイネーティはここに政治の無能と停滞を見出している。「政権に追随するばかりで国家の構造を変革することのできない左派は、一方には国民の要求と、他方には労働者の要求を叫ぶ拠点であることを表現する必要性とのはざまにある。経済的弱者にとっては、言わば、戦争はまったくチャンスでさえない。戦争が資本主義のためのチャンスにすぎないことは歴史的に証明されている」
 しかし左派が常に平和主義者だとは言えない。たとえば、かつて第一次世界大戦やスペイン内戦では左派は参戦論を唱えていた。左派は、イタリアでは、単に反アメリカ主義者であるだけではないのか? サングイネーティは否定する。「左派は1915年から18年の戦争において参戦論を唱えたが、それがいかに最悪の結果を招いたかということを私たちは知っている。ヒトラーやムッソリーニの台頭だ。スペイン内戦は[左派にとって]防衛戦だった、好戦的な意向はなかった。内戦はフランコがしかけたものだ。イタリアのレジスタンスも解放闘争だった、独裁者に対する叛乱をえらび、軍国主義から転向することで生まれたのだ。左派はそれ自体としては、確かに反戦論者ではなく、戦いの厳しさに向き合うことができるものの、徹底的参戦論者の意見など持たない。反アメリカ主義というが、プローディやダレーマが反アメリカ主義者だとあなたは思いますか」
 サングイネーティは考える。左派の矛盾はまさしくプローディ政権から始まり、ダレーマ政権に引き継がれたと。「プローディは左派ではない[=左派の資格など持たない]し、ダレーマについては左派と言っていいのかどうか私にはわからない。しかし確かなのは、どちらの政権も、私たちの生活しているペース、あまり発作的でないこのペースで、NATO合意を見直すことができたはずだったのだ。ダレーマはつい数週間前、国際司法裁判所の判決によって、[ミロシェヴィッチに対し]司法責任への配慮と賠償の認識を要求すべき状態におかれていたのに……。まずそのことを考えなければならなかったのだ。私はまったく楽観的になれない左派の人間として、ダレーマにこう言いたい。まだ間に合う。単なる武力としての戦術ではなく政治的戦略があるのなら、ただちに、すみやかにNATO合意を見直すべきだ。サダム[フセイン]の先例は教訓を残した。[今NATO合意に反して介入をやめれば、]ミロシェヴィッチはあと数年その座にとどまる危険性があるが、しかしイタリアへ流入するコソヴォからの難民は最小限のものになるだろう。イタリアは危険を冒さないとダレーマは言っているが、彼はわれわれを安心させなければならないと思っているのだろうか」
 
 1999年3月25日付『コッリエレ・デッラ・セーラ』紙より。聞き手・編集はマリア・ラテッラによる。


 Bollettario n° 29