インタヴュアー:マリア・ドロレス・ペシェ
 
ジェノヴァ大学文学部内の研究室にて私はサングイネーティに会った。とても寛大なことに、彼はいくつかの質問に答えることを承諾してくれた。
 
――サングイネーティ教授、1963年パレルモにおける新前衛派の第一夜の会合で、劇場公演の提案がありましたね。ゴッツィとデューイによる舞台演出のために十一のテクストが提出され、そのなかにあなたの『K』もありました。あなたの戯曲作品のうちに、63年グループや新前衛派のなかでの経験が残したものがあるとすれば、それは何ですか。
 
サングイネーティ 63年グループに参加した人々全員にとって、設立年のパレルモでの日々、またそれ以降の年ごとの会合は、非常に重要なものだったろうと思います。共通の詩学が練り上げられていったからというわけではありません、はじめの年にパレルモに集まったひとびとはみなすでに自らの著書を出していましたし、程度の差はあれみなが第二の時期を迎えていましたから、みなそれぞれの作家性を持ち、それぞれの道がありました。むしろ、たくさんの議題について論じ互いに対決しあったことが、あの時機に議論しテクストを読みあった人々みんなに避けがたく影響を及ぼしました。私はこんなふうに思っています、その後グループが解体しそれぞれがそれぞれの道を歩み始めたとき、みなが――とくに詩学の領域で、新しい探究の方法に疑いようもなく刺激を与え、より若い書き手たちに影響を及ぼした――このぶつかりあい、この論争のなかから自分にとって有意義なものと思われるものを大切に抱えていった、と。個人的には、『K』を書いた時期については――あれは私のはじめて書いた戯曲で、上演されることを当時は考えていなかったのですが――もちろん舞台にかかればいいと願いながら書いてはいたわけですけれども、それでも――あの経験はのちのちの萌芽として残ったのではないかと思います。つまり、まったくやる気のないことばのやりとりという語法は、むしろ自然主義的なタイプの模倣から完全に距離をとろうという試みでした。私は、できあいの日常といううわべの下で、しかし舞台上で生活をもう一度行うような「悪意のない」あの種のコミュニケーションからはかけ離れたタイプの対話やコミュニケーションを探究していたのです。のちにこの方向へ自身を強く押しやっていったもの[このコミュニケーション]においては、私自身会話に基づかない作品を構成しようとしていたわけですけれども、登場人物の性格なり声なりは豊富にありながらあまり会話が生まれません。『夢判断』や『記録』がちょうどその例でして、ここでは、登場人物がそれぞれ自分自身に起こった出来事や夢といったもの、折に触れ、しかし他の人物たちと対話するのではないようなことを語ります。
 
――ところで、あなたの劇場作品とあの時期の音楽劇の制作経験とのあいだには、とくに、ことばの機能、用法、なりたちという点で、どんな関係があるでしょうか。
 
サングイネーティ その関係は非常に強いでしょうね、当時詩を書いていたときにも、いつもそれを読む声にあてられたものとして私は考えていましたから、そういう意味でね。これは私が演劇の範囲で考えていたという意味ではなくて、わたしたちにとって支配的である目で見る文字よりも、口頭のやりとりのほうが有力であることについて考えていたということです。通常、とくにあのころ、詩によるコミュニケーションは大部分において、文字の書き付けられたページを通して起こっていました。それがもっとも頻度が高く、もっともあたりまえのことで、またまさしく社会的な慣習として、教科書的にもそういうことになっていました。[他方]私は初期の作品群からどちらかというと朗読の声のことを考えていました。この要素はのちに63年グループの内部でかなり出回りました、というのも〈最新人 Novissimi〉の他の詩人たちも同じようにしばしば、こうした方向で声の様式や性能を推し進めながら、詩を舞台に書き移していたからです。私は常に[音声と文字の]二つのレヴェルの区別を保ち続けようとしましたが、私が演劇に関心を持ったのはごく自然な成り行きでした――というのも、声による伝達をめぐる[私の]考えは、言ってしまえば小説にいたるまで非常に支配的だったのでね。小説は今日でもこの上なく静かな文学ジャンルですけれど、たとえば、小説[の朗読]はよくテープに録音されたりしますよね、ラジオ用に朗読されたりなどして、ひとびとがそれを聴きますね。ですから小説として書いたものでも、私は声の存在についていつだって何らかのかたちで考えていたのです。声のありかたは、それ自体、身体のありかたです。それは、たとえ現実のレヴェルでなくとも、少なくとも想像のレヴェルで、実態としての身振りをも含みます。声は身体なのです。
 
――実際にあなたはどんな空間を用いましたか。また、今日のあなたにとって演劇とは何ですか。
 
サングイネーティ 演劇の活動は、はじめての作品だった『K』を除けば、いつも私にとっては、何よりもその時々の機会と結びついていました。私は独立した作品を書いたわけではなく、狭義の意味での、独立した改作をこしらえたわけでもないし、実際の舞台上演を何か思い浮かべながら伝統的な戯曲を推敲したわけでもありません。これはなぜなら、通常私にとっては、舞台化する人間、上演される場所、役者たちなどなどを念頭に置いておくこともまたたいへん大切なことだからです。この限りにおいてひとは、観客である以前に舞台の上でふるまう人間であるところの受け手*1 に向かって、テクスト群を構成しようとします。もっと仕事をしていた時期、戯曲をあまり書かなかった時期にも私は、外部の状況、その時々の機会との関係のなかでやっていました。私が詩を書いて、それを引き出しにしまったりする[=発表の計画を立てるために未発表にしておく]場合にも、万事この通りです。実際、私が詩を書くなどするのは、外部とつながる機会があるときで、本や雑誌などなどを通してつながるわけです。同じことは、評論や小説を書くことのなかでも起こりえます。演劇に関しては、しかし私が思うに、引き出しのなかで[=計画段階で]悪いことに、[模倣の対象としての]「自然」なるものが生まれてしまう、そういうものですから、ゆえに上演のため、舞台化のためになされること[=構想する作業]は、正確な宛先[=どういう受け手に向けて制作するかはっきりさせておくこと]を必要とし、それはとてもはっきりした状況と結び付けられるわけです。もちろん[「自然」は]ときどき生まれることがあります、私の書いたなかで最も長い[戯曲の]テクスト『自然なる物語』の場合がそうでして、このテクストは自動的に――実践理性によらないかたちで――変形されていきますから、この正しく実現されることがない上演のなかで[「自然」が]生まれてきます。つまりたとえば、『自然なる物語』は、まさしく萌芽の段階、ことの発端においては、[作曲家ルチャーノ・]ベリオによる音楽化と[演出家ルカ・]ロンコーニによる演出を想定した音楽劇の着想として生まれました。ですから、こうしたひとびとの共同作業によって生まれる作品でなければなりませんでした。その後、思いがけないいくつかの事情のせいで、この計画は頓挫していまいましたから、あの時点ではベリオのこともロンコーニのことも想定することなくテクストをこしらえていました、私ひとりの作業となったわけです。万事この通りです、当然その後、ある機会のために生まれたテクストにも、同じことが起きました。実際その後、私は[演出家ルイジ・]スカルツィーナのために[エウリピデスの]『バッカス』を訳したのですが、何年も後にロンコーニがこれを舞台にかけました。最近、ナポリで、私の『贋作・ファウスト』(Faust un travestimento)をめぐって集まりがあったんですが、そのあいだに大学でセミナーがありました。これは舞台美術監督と学生たちが組んだものでして、学生たちが、『贋作・ファウスト』の舞台美術案を課題でやっていたんですけれど、そこに演出家が四人参加していました。彼らはナポリでむかえた初演以来ずっと、イタリア内外であの戯曲を舞台にかけてきた人々です(というのは、ベルリンで上演した演出家もひとりいたからです)。おまけに[あの戯曲をもとに]オペラを書いた音楽家[ルカ・]ロンバルディもいました。ここで討議があったわけです。さて、それで、ひとのテクストによって、物語がまさしくさまざまな具現化によって決まってくることがはっきりしたわけですけれど、その計画をそもそものはじまりに持っていることが有効なのです。最近では、演劇とのつながりは、言うならば、[演出家・作曲家アンドレア・]リベローヴィチと組んだ三つの作品に影響しました。というのもここ三年間次々と、《ラップ》《ソネット》《マクベス・リミックス》で、私たちは短期間で三回も音楽つきで舞台化する機会に恵まれたのですから。
 
――あなたのオリジナル作品と、トラヴェスティメント[改作]とは、あなたの劇作家としての活動範囲のなかで、どんな関係にあるのですか?
 
サングイネーティ トラヴェスティメントという語は、意識的に、二つの意味で用いています。この二つの意味は互いに侵しあっていますが、ある観点では区別することもできます。一方では、トラヴェスティメントは言わばある特殊な演劇ジャンルです。これは、何らかのかたちで、つまり戯曲であるかないかを問わず、あらかじめ存在していた素材にもとづいて、とくに見世物とするために拵えれられます。この作業は、イタリア国外で、たとえばとくにドイツの演劇において言われているような意味で、まさしく「ドラマツルギー」によっていると定義されうるものに、とても近いでしょう。わたしたちは、役者としてのつとめを果たしつつ、作家と演出家の関係によって生きています。それから芝居の受け手である観客もいますね。ある文化、たとえばドイツのそれにおいては、[職業としての]「ドラマトゥルグ」[=脚色家]のありかたは作者や演出家とは異なります。舞台をどんなふうに実現するか企画し、作家から与えられた筋書きや脚本、文学テクストにもとづいて作業します。ここで、何らかのかたちでそうしたテクストを推敲し、直しを入れてから、テクストを演出家に回します。それから、演出家が、役者たちとともに実現します。そう、本質的には、トラヴェスティメントの仕事とは、この意味で、ドラマツルギーの仕事なのです。しかし私の思うに、演劇のテクストを書く者は、本当に劇場のことを考えていれば、文学的に用いられている意味で「作家」ではありません。まさしく、――大学での状況についていえば、教員のポストが戯曲文学を教えるほうと実際の上演について教えるほうのふたつに分かれているわけですけれども、[トラヴェスティメントとは]このふたつの立場の綜合であり、要するに舞台にかけられる素材を用意することなのです。この意味で、トラヴェスティメントは、ほとんど、あらゆる形式による演劇のことです。劇作家によって作られたかどうかということは問題になりません。劇作家は素材を準備しそれを舞台に仕立てているあいだにも、黙読ではない読み上げ方や、具体的な実現について考えています。とくにイタリア文学史において何度も見られたように、作家が演劇に専心して打ち込むことはままあります。しかし基本的に、作家が演劇をどちらかというと[文学にとって]二次的なジャンルだと見なすこともしばしばでしたし、作家は何よりも書かれた作品のことを意識して仕事をしますからね。要するに、演劇は、われわれ[イタリア人]にとっても、またきっと一般的にも、ふつう、とても文学的なものなのです。前衛の、また新前衛派の時代に起こった反動は、実際の舞台や、演劇として想像されているものを裏切る叛乱でした。それは言わば、視覚的要素が、論理的なコミュニケーションのような聴覚的要素にくらべて、少なくとも同じくらい重要であるか、ときにずっと重要とされる演劇です。これはまさしく対話の演劇の持っているある種の行き過ぎ、過剰に文学的なものに対する反発でした。
 
――今日の演劇は誰のものだと思われますか、作家、演出家、それとも俳優のもの?
 
サングイネーティ あいにくその三つはどれもそんなに変わりません。あいにくと言ったのはつまり、伝統的な意味での俳優、つまりスター・システムのなかでの俳優は、疑いなく、わりかし衰えてきていますからね。かつて重要な拠点となった劇場はこの三者を非常にうまく組織していました。まさか作家のものだとは言えないでしょう、なぜなら実際、演劇だけでやっている作家などまず存在しないくらいですから。もっとも多くの場合この三者はひとまとまりとして扱われるでしょう。思うに、カルメロ・ベーネのような作家はどうかわかりません、彼はことによると「ドラマトゥルグ」のようなことをしながら彼自身でテクストを推敲しますから。あるいはレオ・デ・ベラルディニス、彼も自分でテクストを練りますね、シェイクスピアから出発していまでは自分の小話にとりかかっていますけれど。また、概して演出家の演劇というものは、俳優を見せる演劇とくらべて増えてきていました。でもその後この増加は終わっています、このタイプの演劇はアカデミックになりすぎて、演出家による実験がやや阻まれるようになりました。これはすなわち、ドラマトゥルグの役割は大切なのに、イタリアには存在しないか、あったとしても有効性のないやりかたでやっているということです。
 
――あなたのお考えでは、今日、演劇界における詩人の役割とはどんなものでしょうか。
 
サングイネーティ その決まり文句は誤解を助長しうるものですよ、しばしば何人かの演出家たちは詩の演劇(un teatro di poesia)について語りますからね。決まり文句というものはひとの心をとらえます、たとえ、詩の演劇が反自然主義的演劇を、つまり保守的演劇の伝統にしたがって物語や筋を並べ立てることから離れて、非常に自由で動的な想像の世界を立ち上がらせるものを意味するのだとしてもね。しかしこの決まり文句は演劇のテクストに叙情を与え、舞台上の効果を視野の外に置いてしまいかねません。つまり舞台の上を詩で満たしかねないということです。適切な意図をもってはじめた演出家でさえ苦しめられるある種の叙情についての危険があります。思うに、重要なのは、すでに軽くふれたように、口頭で話されるということで、たとえ詩人が叙情的なテクストを「言明可能性」に導くことについて考えているのであれば、彼の演劇用のテクストが効果的に成功する可能性はおおいにありますし、あるいはそうでなければその可能性はないでしょう。
 
――最後に、あなたが自分自身にひとつのことを問いかけるとすれば、――演劇をめぐる問いでありましょうけれども――それは何ですか。
 
サングイネーティ きっともっとも簡潔な問いとして次のようなものがあるでしょう。「なぜ演劇のテクストを書くのか?」すでに触れたように、ひとは外部の状況にしたがって演劇のテクストを発展させていきます。けれども、初めのテクストを書いた段階では、誰も私にそのような義務を課していませんでした。私を突き動かしていたものは、大雑把に言えば、ひとつのジャンル、つまり詩の書式のなかだけに私自身を閉じ込めるべきではないという観念でした。この観念が、小説を書くこと、韻文における仕事だけに自ら限定しないことを私に課しました。しかし演劇において私に襲いかかったものは、一種の「無責任」でした。いわば、現象を少し脚色することについて、演劇のテクストを書きながら、それを感じていたわけです。つまり、演劇のテクストを書く者は、ひとつかそれ以上の声、ひとつかそれ以上の人物に、舞台上での発言や行動を任せます。劇作家は、ある地点でついには、想像されたイメージへ至るある種の言葉のくだりを、そしてその位置から話しているひとりの他者を、信じることになります。要するに、詩人はまったくいまだに小説家と同じように、叙述を行う一人の「私 io」に集約されます。この私はまったく架空のもの、まったく見せかけのものかも知れないし、消えうせることもありえます(20世紀の詩学はまさしく「私」の役割を弱めようとする観念から生まれてきました。)しかし演劇においては、あるやり方で、この役割はまったく打ち消されることになります。舞台上には登場人物がいます、登場人物は作家ではありません。たびたび見られるように作家の代弁者でもありえますが、しかし大部分は、また演劇的にすぐれたいくらかの場合では、登場人物が何らかのかたちでひとりでに話すものです。ひとは、書くことについて霊媒をとどめるかのような印象を持っています。あるいは強いていえば、仮面劇やトラヴェスティメントのなかに自分自身をとどめるかのようにね。ひとりは完全に想像上の登場人物、ひとりは子ども、他は老人、青年、女性といった具合に、語っている登場人物はもはや「私」ではありません。ある時点でひとは、登場人物たちに対面して、ひとりでに話しているのではないかという感覚を持ちます。ピランデッロ風に言えば、登場人物たちは作家自身に対しても叛乱を起こし、言いたいことを言うわけです。トラヴェスティメントとは本質的には一種の転写であり、またそれぞれの登場人物に変装した作家なのです。自分の演劇作品をたまたま見ることがあると、白状しなければなりませんが、落ち着かない気持ちにさえなります。なぜなら、まったく私のものだとは思えないテクストを前にして自分を見出してしまうのですから。あるときなどは、登場人物によって、また声によって、私を仰天させるようなことが言われているのを発見して、驚愕しました。まるでいわゆる無意識の領域への大きな開かれのようでした。私にとってものを書くことのなかで、無意識の領域は常にとても重要でありつづけていました。たとえどんなありかたが採られても、私は演劇においては、様式のうちに――いえ、より正確には、自らの解放、自らの分割という様式のうちに、無意識の領域を感じます。
 


Parol - quaderni d'arte e di epistemologia, On Line, Dipartimento di Filosofia dell'Università di Bologna, febbraio 2000.

訳註:
*1 この前後では少なくとも、彼による戯曲『狂乱のオルランド』(1968、アリオスト原作)が意識されている。この戯曲はいわゆる全体演劇として上演された。役者たちは野外で、観客たちをときには林に見立てたり、またときには敵軍に見立てたりしてオルランドやブラダマンテなどを演じたのだった。