典拠:Luciani, Sebastiano Arturo e Respighi, Ottorino. Orpheus. Firenze: Editore G. Barbera, 1925: 316-333.
日本語訳:原口昇平(連絡先
最終更新日:2011年11月30日  ※引用の際 典拠、訳者名、URL、最終更新日を必ず明記
 
(『オルフェウス』より20世紀音楽に関する記述)  ルチャーニ&レスピーギ
 
 
  
最新の諸傾向
 
 国民楽派の運動が、ベートーヴェンの死に際してドイツで始まり、もっぱらヨーロッパ中に拡大しつづけた。しかし、19世紀後半と20世紀初頭を占めるこの国民的運動のもっとも重要な事実は、いわゆるロシア楽派の発生によって形成された。これは同質の音楽家たちの集団と見なされる最後の楽派であり、イタリア楽派やドイツ楽派のあとにヨーロッパにあらわれる。
 グリンカやダルゴムイシスキーのあと、アントン・ルビンシテイン(1829-1894)やピョートル・チャイコフスキー(1840-1893)のような歌劇や器楽の作曲家たちは、本質的にはドイツ楽派に属する人々として見なされるだろう。こののちにある5人の音楽家たちの作品を通じて、ようやく、正真正銘のロシア音楽と言われるものの諸特徴すべてが打ち出されるにいたる。その音楽は、形式・様式の因襲を保とうとする傾向から自らを解放すること、そしてとりわけ民衆の音楽に自らの着想を得ることを課題とするものである。その5人の音楽家たちとは、ツェーザリ・キュイ、バラキレフ、ボロディン、ムソルグスキー、リムスキー=コルサコフである。
 この楽派は主に、声楽、劇場音楽、交響楽を作曲している。その莫大な総体のなかの重要な作品群は、西洋音楽にとっては未知なるリズムを豊かに持ち、民謡や典礼音楽に由来するかたちで旋法性を含み、それまではウェーバー、ベルリオーズ、リストら傑出した西洋の音楽家たち数名の作品のなかにのみ現れてきた強烈な色彩感覚をうかがわせる点で際だっている。
 ボヘミアにおいては、ベドルジハ・スメタナのあとに、アントニン・ドヴォルザーク(1841-1904)が続いた。彼の作曲した《新世界交響曲》は、ボヘミアの民謡をモチーフとして狂詩曲である。ノルウェーにおいては、エドヴァルド・グリーグ(1843-1907)があらわれる。彼は《叙情小曲集》できわめて人気を得ている。これは形式的には単純だが、詩や色彩に満ちている。ノルウェーには他にクリスティアン・シンディング(1856-)もいる。フィンランドにおいてはジャン・シベリウス(1865-)が、またスペインにはスペイン国民音楽の父フェリップ・ペドレル(1841-1922)やイサーク・アルベニス(1860-1909)があらわれる。しかし、国民的特徴のこうした表出から独立して、ヨーロッパ音楽のなかに二つの傾向が出現してくる。形式的発展を明らかに見せるその二つの傾向は、いまやきわめて有名な二人の巨匠によって象徴される。すなわち、リヒャルト・シュトラウス(1864-1949)とクロード・ドビュッシー(1862-1918)である。
 リヒャルト・シュトラウスは、1864年にミュンヘンで生まれ、交響詩において名声を獲得した。すなわち《ドン・ファン》、《マクベス》、《死と変容》、《ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら》、《ツァラトゥストラはかく語りき》、《ドン・キホーテ》、《英雄の生涯》、《家庭交響曲》である。これら交響詩において、それぞれ題名からわかるように、シュトラウスは、ベルリオーズによって創始されリストによって定着した標題音楽ジャンルを継承している。いくつかのものにおいては、つまりたとえば《ドン・ファン》《死と変容》では、基本理念は非常に明確であり、音楽に表現できる。けれども、《ツァラトゥストラはかく語りき》や《英雄の生涯》などにおいては、音楽は純粋に詩的な、もしくはまったく哲学的な概念の継起に従わねばならず、現に従っている。《ドン・キホーテ》は変奏曲形式で、また《テイル・オイレンシュピーゲル》はロンド形式で書かれてはいるものの、楽節形式は完全に消失しきっている。シュトラウスの音楽は、いわば音楽的散文といえる。そのなかでは、本質的に律動的な音楽の論理が、着想を生む純粋に知的な概念に従属させられているのだ。
 ドビュッシーの音楽はまったく異なる特徴を持っている。クロード・ドビュッシーは、手っとり早い言い方で、印象主義者であると言われている。実際、印象主義者たちの絵画において線が色彩の犠牲とされるように、彼の音楽において和声進行は、通常ならば各部でひとつの規則的な旋律的構想に従うものだが、まさしく音の点描と言いうる独立した諸和音に代わっている。また、印象主義の画家たちが顔料の混合によってではなく原色によって描くのと同じように、ドビュッシーは音色の混合や楽器群の対立によって編成を行うのではなく、楽器を原色として用いる。すなわち、それぞれの特徴的な音色を分離して際立たせるのだ。こうした類比は問題を単なる技術の領域の中へ押し込めてしまうという欠点を持っていたが、他方ドビュッシーの芸術はもっと重要な事象を提示している。すなわち、近代音楽における風景の出現である。というのも、音楽は自然の個々の声を再現しえず、そうする必要もないが、そうした声の全体的な印象を表現しうるからだ。
 音楽の風景と解されるものは、ベートーヴェン、ベルリオーズ、リスト、それからワーグナーまでのロマン派作曲家たち全員において、多かれ少なかれ存在する。しかしそれは、わずかな筆触に限られているうえに、いわば1500年代の肖像画のように絵画の遠景へ追いやられている。それはドビュッシーとともにようやく前景へせり出してきて、真に「ひとつの精神状態」となっている。このジャンルにおいて、ドビュッシーは、喚起力に満ち名状しがたく暗示的な力を持つものをいくつか書いている。またそれらは彼の作品のうち真に描写力に長けている。たとえば、《イベリア》のなかには、正午のある都市の焼けつく香しい空気が満ちている。また、《祭》は、18世紀の広場における祝祭のイメージを自在に喚起する。さらにピアノ小品や《前奏曲集》において、題名は楽曲の末尾に置かれておいる。それは、あたかも音楽によってすでに喚起された像を固定するためであるかのようだ。その像はドビュッシーの芸術の偉大さを明らかに示す。ドビュッシーは、ショパン以後に登場したピアノ曲の作曲家としてもっとも独創的であり、かつショパン以後に「新たな激震」を起こし得た唯一の人物である。さらに言及せねばならないのは歌曲である。歌曲において、音楽は、言葉の表現を強化して詩を取り巻く雰囲気を決定するという機能を持っている。
 十分述べてきた通り次のことは明らかだと思われる。すなわち、シュトラウスが劇的要素を強化しつつ楽節形式を溶解させながら、霊感を与える痕跡をあの知的な律動の論理に代える一方で、ドビュッシーは和声的なものである叙述的かつ印象派的要素を発展させながら、まさしく運動の芸術といえる音楽を静的なものへ変えている、ということだ。彼らふたりの音楽家たちは音楽を自らの可能性と限界の果てに導いているのである。
 形式的発展はこうした二つの明らかな動きに限らない。ワーグナーによって導入されマックス・レーガーによって深められた半音階技法は、アルノルト・シェーンベルクにおいて無調性になっている。
 シェーンベルク(1874-)は、ピアノ小品、四重奏曲、独唱2名・朗読・合唱・管弦楽のための連作叙情詩《グレの歌》、そして《月に憑かれたピエロ》(1911)の作曲家である。最後のものは、朗唱的独唱、ピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、フルート、ピッコロ、クラリネット、バス・クラリネットのための音楽付詩篇である。
 最後にロシアの音楽家イーゴリ・ストラヴィンスキーがバレエ音楽《ペトルーシュカ》及び《春の祭典》で力強くも揺るぎない評価を得ている。ストラヴィンスキーの音楽のもっとも特徴的な側面はそのリズムである。ときには、このリズムは均質な状態をとり、いわば、ある種の蛮人の音楽におけるように執拗に長く持続する。またときには、異なるリズムが、異なる音色によって際立たせられ、折り重なって、リズム的対位法を生ずる。そのなかでは、旋律や和声の要素は後衛へ退く。これは酒神祭のごとき狂騒と蛮族ふうの音楽であるばかりでなく、音楽の基本的な産出原理を再確立する力を持つものである。
 明確に特徴のある傾向をはっきり示すこうした音楽家たちのかたわらで、自らの音楽のうちにきわめて多様な傾向を反映する作曲家たちが無数にいる。
 オーストリアでは、フーゴー・ヴォルフ(1860-1903)がリートに叙唱やワーグナーの交響楽的注釈の原理を導入している。またアントン・ブルックナーの弟子グスタフ・マーラー(1860-1911)は混成かつ巨大な編成の様式の交響曲群を書いている。ドイツでは、偉大なイタリア人ピアニスト、フェッルッチョ・ブゾーニ(1866-1924)がもっとも近代主義的な作曲家として頭角を現している。ロシアでは、アレクサンドル・グラズノフ(1865-)、アレクサンドル・スクリャービン(1872-1915)、ウラディミール・レービコフ(1866-1920)、アントン・アレンスキー(1861-1906)、アナトーリ・リャードフ(1855-1914)らが国民的性格を発展させている。さらに各国で多数の作曲家が同じようにしている。すなわちイングランドのシリル・スコット(1879-1970)、ハンガリーのバルトーク・ベラ(1881-1945)やコダーイ・ゾルターン(1882-1967)、スペインのマヌエル・デ・ファリャ(1876-1946)、フランスのアルベリク・マニャール(1865-1914)、ポール・デュカス(1865-1935)、モーリス・ラヴェル(1875-1937)である。
 前章にて概略を述べたところのイタリアにおける音楽家たち(ズガンバーティ、マルトゥッチ、マンチネッリ、スコントリーノ)らは根は新古典主義者たちである。彼らは多かれ少なかれごく短期間で、とくにシューマン、ブラームス、ワーグナーらドイツの音楽家たちの影響を受けている。こうした新古典主義的な交響曲作家たちの小集団に、さらに次の人々も加えねばならない。アルベルト・フランケッティ、M. E. ボッシ、カミッロ・デ・ナルディス、A. ロンゴ、レオーネ・シニガーリア、ジャコモ・セタッチョーリである。けれども新しい世代において和声法や管弦楽法に精通した音楽家たちが豊かに開花している。そのなかには、近代音楽のもっとも大胆な諸傾向が反映されている。この世代のなかにはジャン・フランチェスコ・マリピエロ、アルフレード・カゼッラ、オットリーノ・レスピーギ、エンリコ・カステルヌオーヴォ=テデスコ、アルベルト・ガスコ、他にも数え切れないひとびとがいる。逐一論ずる余裕はないが、交響楽ばかりでなく声楽曲や室内楽曲の作曲家たちだ。
 アルフレード・カゼッラは、近代イタリア音楽に関する講演において次のように述べた。「新しい音楽性がイタリアにおいて出現している。そして私が興味を抱く音楽家たちはみなこれを共有している。手短に定義するならば、それはある安定した傾向を通じて特徴づけられるだろうと私は思う。その傾向は新しい古典主義へ向かうものだ。その新しい古典主義はイタリア国内外の音楽の成果すべてをひとつの快い調和のなかにまとめようとするものだ。また私にはこう思われるのだ。フランスの印象主義、シュトラウス風の頽廃、ストラヴィンスキーの原始主義、シェーンベルクの主知主義、スペインの官能性、バルトークやコダーイの大胆な幻想とは異なるひとつの音楽が、今日すでに、われわれのもとで一体となって表面化しはじめているのだ。」
 したがってこうしたことすべてから次のことが推察される。すなわち、17・18世紀において作り出されたひとつの共通言語のように、多様な音楽の方言をひとつに融合させたものをヨーロッパに向けて発信する使命が、現代のイタリアに残されているのである。
 
オペラ
 
 19世紀後半の劇場音楽においてもっとも重要な事実は、ワーグナーのオペラの出現に加えて、ロシア国民楽派オペラが登場したことだ。
 新しい楽派に属する五人の巨匠たちは、ほぼ全員、劇場音楽を作曲した。リムスキー=コルサコフは《クリスマス・イヴ》《五月の夜》を、ボロディンは傑作《イーゴリ公》を、ムソルグスキーは《ホヴァンシチナ》《ボリス・ゴドゥノフ》を書いた。何よりまして典型的にロシアらしいオペラは、《イーゴリ公》以上に、1876年にペテルブルクで上演された《ボリス・ゴドゥノフ》でありつづけている。このオペラの重要性は、ウェーバー《魔弾の射手》の重要性に唯一匹敵する。というのも、ドイツ精神を《魔弾の射手》が明らかにしていたのと同じくらいに、《魔弾の射手》はロシア精神を明らかにしているからである。劇のあらすじは、シェイクスピア風の残忍な物語である。支配欲によって無実の兄弟を殺し、現世にていっそう待ち望むものをめぐって運命に罰されるのではないかという恐怖やマクベスのように不安に満ちた幻覚に苦しみながら死ぬ男の物語である。見ればわかる通り、このすべてのなかに、本質的にエロティックで根本的に常に貴族主義的なイタリアの古いメロドラマの諸要素は存在しない。愛はこの暗い悲劇において完全に二義的なものとなっている。オペラは、その言葉のもっとも広い意味でももっとも狭い意味でも、民衆のものとなっている。というのも、合唱こそが表現の本質的要素となっているからである。ギリシャ古典悲劇のコロスと同様に、合唱は常に登場しており、そのなかには劇行為のモチーフが拡大されて反映されている。この点において、そのオペラの特異性と魅力は、メロドラマよりもむしろアイスキュロスの悲劇を思わせるものであり、民衆の精神を明らかにするあらゆるオペラと同じように真の深い宗教性という特徴を思いがけず獲得しているのだ。
 イタリアにおいては、ヴェルディの追随者たちのあとに、いわゆる新派 la giovane scuola があらわれる。この一派は議論の余地なき功績がある。彼らは息苦しいワグネリズムの時節において、国民芸術の諸特徴を損なわずに維持し、メロドラマの内面の発展を成し遂げた。メロドラマは、かつてヴェルディとともにロマン派的になり、この一派とともに現実主義的になっている。
 こうした音楽家たちのなかでもっとも特徴的な人物は、ピエトロ・マスカーニである。彼は1863年にリヴォルノに生まれ、1890年初演の一幕オペラ《カヴァレッリア・ルスティカーナ》によって世に出た。これは欠点を持つにせよ天才的作品である。そしてそのヨーロッパにおける成功は、ペルゴレーシ《奥様女中》やピッチンニ《チェッキーナ》に唯一比肩しうる。《カヴァレッリア・ルスティカーナ》のあと、ピエトロ・マスカーニはあらゆるジャンルに取り組んだ。すなわち、彼の初期の作品をのぞいても、牧歌的なもの(《友人フリッツ》)から悲劇(《グリエルモ・ラトクリフ》)まで、くた喜劇的作品(《仮面》)から異国情緒にあふれた作品(《イリス》)までである。後続のオペラのうちどれひとつとして《カヴァレッリア・ルスティカーナ》の名声に達したものはなかったが、《イリス》において見るべき部分があることは指摘しておかねばならない。それは、和声や楽器編成の大胆な色彩という点で、アルプスの向こう側の大勢の作曲家たちの先を行くものである。
 ジャコモ・プッチーニ(1858-1924)は今日もっとも人気の高い代表的なオペラ作曲家である。《マノン》、《ボエーム》、《トスカ》、《蝶々夫人》、《西部の娘》は演劇性に富んだオペラである。そのなかでは、近代的技法のもっとも大胆なふるまいが幸福かつイタリア的に融合しているかのように見える。
 こうした作曲家たちに加えて記憶されるべきなのは、ルッジェーロ・レオンカヴァッロ(《道化師》)、アルフレード・カタラーニ(《ワリー》)、ウンベルト・ジョルダーノ(《アンドレア・シェニエ》《フェードラ》)、アルベルト・フランケッティ(《クリストフォロ・コロンボ》《ジェルマニア》他)である。他にも、ピエトロ・フロリディア、ニコロ・ヴァン・ヴェスターホウト(《フォルトゥーニオ》《ドナ・フロール》)、スピロ・サマラ、ルイジ・マンチネッリ(《エーローとレアンドロ》《フランチェスカ》)、アントーニオ・スマレーリャを挙げておこう。
 伝統的・国民的特色の作品の傍らにて、器楽においてすでに生じていたように、はっきりと際立った二つの傾向が現れてきている。それぞれを代表するのは、すでに論じた二人の作曲家すなわちリヒャルト・シュトラウスとクロード・ドビュッシーである。
 リヒャルト・シュトラウスは、かつて、ワーグナーの遺した足跡を忠実に追いかけながら、オペラ作曲家としての経歴を開始した。最初のオペラ《グントラム》(1892)は、出来映えばかりでなく、場面設定においても、《パルジファル》に想を得たものであり、ワーグナーの作品群を思い起こさせる。イタリアでも数年前に上演された《火の消えた町》(1901)もまたそれほど独創的ではない。しかし《サロメ》(1908)によってリヒャルト・シュトラウスは音楽劇の完全に個人的な型を作り出している。ワーグナーはかつて「ベートーヴェン風交響楽の豊かな奔流」を音楽劇に導入したが、しかしモノディーの要素を排除しながらも叙唱を依然として交響楽的部分とその他のあいだにしばしばあらわれるままにしていた。リヒャルト・シュトラウスのオペラにおいては、反対に、交響楽は劇全体に均等に浸透している。ことばは、ワーグナーのオペラにおいては時折本質的かつ原理的要素としてあらわれるものの、シュトラウスのオペラにおいては交響楽の激しくときに混濁した奔流からかろうじて浮かび上がるまでになっている。《サロメ》に続く《エレクトラ》は、なおいっそう前進しいっそう個性的な劇の型を示しており、あたかも巨大かつ激烈な交響詩のように思われる。このなかでは、言ってみれば、ことばが音楽を注釈するのであって、音楽がことばを注釈することはない。他のオペラに関して言えば、それらはもっぱら、近代的手段によって、イタリアの古いオペラ・ブッファや、モリエールのコメディ・バレを革新するという試みを提示している(《ばらの騎士》《ナクシス島のアリアドネ》)ばかりである。また《ヨゼフ伝説》は、シュトラウスの交響楽的劇の極まった表出を示しえているかも知れないが、舞踊とパントマイムのあまり成功していない例でしかないということを認めねばなるまい。
 リヒャルト・シュトラウスの芸術がワグネリズムの趨勢を追い、それゆえにいわばオペラの進化を目指していた一方で、反対にクロード・ドビュッシーの芸術は反動現象を示している。というのも、フィレンツェのカメラータによって定められた諸原理に劇を再び導いているからである。
 ドビュッシーは書いている。「私は、全力で、こころを込めて、私の音楽を劇の詩的内容に一致させることにつとめた。聴衆は、オペラを聴きながら、二つの印象を体験するのに慣れっこになっている。すなわち、音楽の印象と、演技する人物の印象だ。そして、平生、一方の次にもう一方を感じている。私は両方を結びつけようと試みた。音楽が固有のリズムを持ち、精神の諸感覚はそこから出来事に応じたいっそう本能的なもうひとつのリズムを受け取る。そこからは結果的に永続的な闘争しか生じえない。だからワーグナーのような交響楽的な形式の使用は、不都合であるばかりか、むしろ劇的な詩と対立して壊滅させてしまうのだ。」それゆえドビュッシーのオペラにおける音楽は叙述の運動にならう。音楽は自らの帯びたことばと同じくきわめて素朴となり、朗読となる。(省略)これら諸動機はワーグナーにおけるように特定の対象を意味しない。(省略)
 こうしたすべてから、いかにしてメロドラマがそれ自体の創始にまで差し戻されたかがわかる。数字付き低音によって指示された単純な和音に代わって、解決の原則に従わない暗示的な和音が置かれている。そうした和音が、役者の台詞を夢のような雰囲気で包み込むのである。しかし こうしたことすべてから同時に次のことを見いだすこともたやすい。すなわち、ドビュッシーのオペラの根本的な誤謬は、メロドラマの作曲家たちのものと同じなのである。彼のオペラは音楽的である以上に文学的なのであり、音楽よりも詩の精神においてこそ着想されている。言葉のリズムを重視するために、彼は音楽のリズムを衰弱させてしまい、また詩を窒息させないために、彼は音楽を音の印象主義に適合させているのだ。とはいえ、次のことに変わりはない。《ペレアスとメリザンド》は、ワーグナーの《トリスタンとイゾルデ》以来、劇場音楽のなかにあらわれたもののなかでも、もっとも注目に値し、またもっとも精神的に重要なオペラである。
 クロード・ドビュッシーによって作り出されたオペラの型を模倣する人物はいなかった。しかし、言葉や叙唱に最大限の重要性を与えて音楽劇の問題を解決しようとする類似の試みは出てきた。イルデブランド・ピッツェッティはその試みを《フェードラ》で行った。このガブリエーレ・ダンヌンツィオの言葉に基づく音楽悲劇は、1915年にミラノで初演された。《フェードラ》に続き、ピッツェッティは彼自身の書いた詩に基づいて《デボラとヤエーレ》を書いた。
 いわば叙唱風オペラというべきこのジャンルでは、ドメニコ・アラレオーナがヴィットリオ・アルフィエーリの言葉に基づく悲劇《ミラ》を作曲している。
 反対に、交響楽的オペラの型のものでは、オットリーノ・レスピーギ《セミラーマ》がある。
 最高のオペラ作曲家でありつづけているイタリアの作曲家たちは、多かれ少なかれ、ジャコモ・プッチーニの継承したヴェルディ以来の伝統的な型を保持している。その型は、旋律的であると同時に劇的である。もっとも若いオペラ作曲家たちのなかでもっとも有名なのは、リッカルド・ザンドナーイ(《コンキータ》《フランチェスカ・ダ・リミニ》他)と、イタロ・モンテメッツィ(《三人の王の愛》)である。とはいえ、他に、フランコ・アルファーノ、ペドッロ、セッピッリ、トンマジーニ、プラテッラ、その他多かれ少なかれ無数の実り多い人々がいることを覚えておかねばならない。
 最後に、イタリア器楽に関してすでに論じたところの統合的傾向に対応するオペラの型には、オットリーノ・レスピーギ《ベルファゴール》が到達している。これはスカラ座で1923年に初演された。このオペラにおいては、豊かな交響楽が、イタリアオペラの伝統的形式のなかにはめ込まれている。
 
オラトリオ
 
 オラトリオは、イタリアではほとんど完全に放棄されたジャンルであったが、誰よりもまずドン・ロレンツォ・ペロージのおかげで思いがけず再興してきた。彼の多数の作品(《ラザロの復活》《キリストの復活》《モーゼ》他)は、清澄かつ神妙な旋律の霊感にあふれている。彼とともに覚えておくべきなのは、M. E. ボッシである。彼は、模範的な作品を二つ書いた(《雅歌の中の雅歌》《ジョヴァンナ・ダルコ》)。他にジョウァンニ・テバルディーニがいる(《聖チェシーリアの結婚》)。
 
バレ・リュス
 
 舞踊音楽の新ジャンルは1908年にヨーロッパのなかに突然現れ、数年も経たぬうちに並外れた人気を博して大流行するまでになる。いわゆるバレ・リュスについて論じることにしたい。
 セルゲイ・ディアギレフによって組織されたこうしたショーについて論じる際、それらをまだ見たことのないひとは、普通のバレエと類似した何かを、あるいはせいぜい通常のものよりよいバレエを想像するだろう。それは間違いだ。なぜならそれらはまったく別のものだからである。そしてその重要性は外面の完璧さのなかにあるのではなく――もちろんそれらは現代の劇場で見られるもっとも洗練されたショーであるが――むしろより深いことのなかにあるのだ。
 現実にどうであるかという印象をことばであらわすことはできない。というのも、そのなかには、古いバレエにおけるように俗っぽく騒々しい舞踊音楽などははなく、輝きと豊かさはこのうえなく純粋な交響楽を思い出させる。舞台は、ただすさまじい色彩と光の見せかけの効果をともなうのでなく、それでも光と色彩の豊かかつ深い調和なのである。これはレオーネ・バクストとアルクサンドル・ベノワによるものである。さらに、演者たちの衣装は運動のさなかにいっそう新しい調和と不調和を半音階的に生むのである。幾何学的動作と無用な超絶技巧ではなく、むしろ装飾上の不均衡と、古い舞踊におけるような見せかけの無秩序である。とりわけ、リズムによって揺れ動く美しい身体の魅惑的な優美さである。要するにわれわれは特異な芸術形式に直面するのである。それは、もはや舞踊やパントマイムではなく、むしろ今世紀初めて現れる総合舞台表現なのだ。すなわち、身振りの劇である。それは交響楽から生じ、また叙情詩が聴衆の精神のなかに産みつけるところの、身振りとそれに暗示される光景を客観的かつ具体的に見たいという欲求から生じている。悲劇においてそれは詩と音楽の表現から生じる。他方、身振りの劇においてはただことばの要素から完全に解放された交響楽によって、しかしそれ自体で古典叙情詩と同じくらい力強く表情豊かに生じてくるのである。
 それゆえ音楽は、身振りにならうことはなく、むしろ、私的な筋書きにのみ漠然と想を受けつつ身振りを決定するのだ。この原理が直感的に理解されたため、初期の数作のあとにまったく独創的な身振り劇のいくつかを持ちえたのだ。たとえばM. ラヴェル《ダフニスとクロエー》や、とりわけイーゴリ・ストラヴィンスキーの三つのバレエ曲《火の鳥》《ペトルーシュカ》《春の祭典》である。とりわけ最後の作品において、ストラヴィンスキーは、想をもたらす筋書きからいっそう大きな自由を獲得している。
 バレ・リュスは1909年にフランスにあらわれた。伝統に忠実な方面から反対されはしたものの、大衆のなかにきわめて激しい熱狂を呼び起こし、前衛の雑誌から絶賛された。イタリアにおいては、1911年に、はじめスカラ座に、続いてコスタンツィに登場した。何年もたった今、彼らは、第一次世界大戦前の劇場音楽の最新の表現以上のものを示してはいない。しかしながら、詩と音楽の劇を複合した形式であるオペラの隣で、現代の劇場のふたつの対極的な形式のうちひとつを、彼らは相変わらず構成している。言ってみれば、現代の劇場は、一方では純粋にことばのものとして、他方では純粋に音楽のものとして、二極化している。いまや成り行き上官能的な印象主義的産物などどうでもよい。こうした公演の主題が単純であって英雄的であるか幻想的である題目に限られていることも問題ではない。われわれの詩の――むしろ「散文の」と言われる――演劇は、かくも知的なものとなり、かくも無味乾燥なものとなっている。そのせいでわれわれは、しばしば夢と幻想の王国のなかへわれわれを連れ戻す形式の必要を感じているほどである。ここにこそこうした公演の真の存在理由があるのだ。だからわれわれは、セルゲイ・ディアギレフの見いだしたこうしたバレ・リュスの奇跡的な踊り手や音楽家や画家たちに感謝するべきである。彼らこそが、疲れはてた陰気なヨーロッパのなかに、リズムと音色、光と色彩の大饗宴を、すなわちディオニュソス的芸術の風をもたらしたのだから。