生まれ
青山スイ『君に会いに行く』
八行詩節、二連。
一連目に描かれているのは異人としての感覚だ。はじめてみる風景。なじめなさ。不慣れ。
「見慣れた信号の色と形でさえ、機能としての/存在でしかないのだと、知り合いのように/迎えてはくれなかった。やはり迷い込んでしまった」……このフレーズには注意すべきだ。「見慣れた信号の色と形」が普段どおり、進め・注意・止まれのメッセージを伝えてくる「機能」を果たしている「存在」であれば「迷」うことはない。その逆であって、つまり「見慣れた」はずの「信号」が「知り合いのように迎えてはくれなかった」のだ。そのとき「信号」は普段の「機能」を果たすばかりではなく、おそらく美的な感受を「僕」に要請している。脱コード化された差異。「信号」の赤は、もはやただ止まれとばかり語りかけてはいない。この町の信号の赤は「僕」の「知らない」赤だ。それはまだ交通信号の意味を教えられる前の幼児が横断歩道に立ったときの赤へ引き戻されつつある。この状態はもちろん危険だ、信号の意味を再び教えてくれる母が隣にいないから。けれどここには生々しさしかない。
歩き慣れた道にほとんど未知はない。たとえば、あなたのメガネが壊れたので買い替えに行くとする。あなたの視力は〇.一以下だ。駅までの通い慣れた道をメガネをかけずに歩いていく。あなたはその道をほとんどなにごともなく歩けるだろう。視力の衰えた眼にぼんやりと見えている街の輪郭と、これまで歩いた記憶とを照らし合わせながら、あなたは歩いていく。危険がどこにあるかもあなたにはわかっている。そのときはじめてあなたは気付く、歩き慣れた道を、最近はほとんどあらためて注意深く見直していなかったことに。
その反対に「僕」は「知らない町」を注意深く見つめている、「見慣れた信号」さえかつて経験したことのないものとして。「迷い込んでしまった」のは、生々しさのなかへ、だ。
だが二連目最終行で不思議な感覚に襲われる。「懐かしい鼓動」に出会う……「知らない町」で、「君の生まれた町」で。この詩に書かれている言葉は「君の鼓動」ではないし、「僕の鼓動」でもない、また「鳥たちの鼓動」でもない。発語された時点ではまだ誰のものとも明らかではない「懐かしい鼓動」なのだ。ここでも「鼓動」は「町」の風景と同じくはっきりと分節されていない、しかし「町」とは違ってそれは記憶や記憶や過去の体験が参照されている限りにおいて「懐かし」く、かつ誰のものか定かでない。そのようなノスタルジーは、「僕」がこの世に顔を出す前の体験に起因するものか、少なくともそれに似た何かではないだろうか。「僕」がまだ「僕」たりえていないころ、「信号」の意味を教わる前の、「僕」の手=器官が「僕」の身体の全体性に組織されるより以前の、ばらばらだったころの何かに。
「ほとんど何もない僕」「ほとんど何もない荷物」「ほとんど何もない実質」……もはやすべての器官や意味はほとんど空無化し、流れ出している。そのなかで「君の瞳に映るモノが、素晴らしい世界であるならば/僕の瞳に映るモノも、素晴らしい世界でありたいと/願う。」ここでは「君の瞳」を「僕の瞳」として、「僕」の身体のなかへあらためて組織し直そうとしているのだ。それはもちろんなかなかうまくいかない。だが少なくともそれを試みることは、ひとつの愛の試みだ。
君の生を僕が生きなおすことは決してできない。だが少なくともそのように生きようとすること。そのためには、「知らない町」をあたかも知っているかのように、自らを欺いてはならなかった。かつて君が生まれたときこの町を知らなかったように、僕もまたこの町を知らずに「君の生まれた町」へと生まれてこなければならなかった。「君に会いに行く」、そして「懐かしい鼓動」が帰ってくる。「君の生まれた町」は、「僕」の、たったいま生まれた町だ。