きみを見届けるから ―船田 仰『朝とオレンジ』
なんでもないものも、確かに息づいている。そんな感触をこの手にすることができるのは、ネットならではのことではないかと思う。外では、強い言葉ばかりがあふれている。声の大きなひとの叫びがいたるところから聞こえてくる。運動家たち。新聞の論調。その強い言葉の波にもまれながら、学校へ行ったり、働きに行ったりする人々がいて、けれど普段はそういう人々のことはなかなか目に映らない。いや、雑踏は目に映るのだけれど、ほんとうにそこにいるのだと確信できない幻のように、彼らは決して大きな声をあげない。小さな声で泣くこともあるのかも知れないが、その弱い響きは強い言葉の波に流されてしまって、ここまで聞こえてこない。
声の小さなひとびと。彼らが扉を開けて帰っていって、ふっと息をつく、そのふきだまりのようなものが、オンラインの空間には浮かんでいたりする。そのひとつひとつを確かめるように……彼らの声をふたたび自分の口から出しなおすようにしながら、言葉を読んでいく。
船田 仰の作品のひとつを、もう一度読んでみたい。
『朝とオレンジ』という詩だ。
呆然とくつばこを見つめてから
オレンジの靴をとりだす
未だにそれはしっかりと
買いかえる気も失せるくらいしっかりとしてる
まいった (第一連)
よく晴れた空がつらい、ということがある。気持ちのいい風が吹いているはずなのに、何もかも、もっとしなびていてもいいんじゃないの、と思うことがある。帰り道にふらふらと立ち寄った本屋では元気で明るいうたばっかりが流れていて、ちょっと疲れてしまうことがある。
それはその「しっかりと」したものが、自分よりも強いものだからだ。自分をとりまく何もかもが、あまりに強すぎて、たちくらんでしまうことはないか。それは快感であることもあれば、また強烈な吐き気を催す原因であることもある。たしかに太陽のひかりは素晴らしい。素晴らしいが、ずっと凝視していれば、ぼくの眼は焼かれてしまうのだ。
この詩のなかの「ぼく」は、自分をとりまくこうした強い世界をはっきりとみとめている。
望んでたことじゃないことが
案外にしぶとく
静電気でゆびにまとわりつく塩化ビニルほどにしぶとく
その存在を誇ることも
窓からカラスをながめて
ふと共に鳴いてみたくなったとき
とってもさみしくなるようなことも
新聞にはのったりしない (第三連、部分)
カラス、鳴けばいいよ
どっちにしたってぼくらは分かってあげられない
ぼくが死んだってきみが死んだって
きっといつになっても新聞にはのらないんだろう (同)
世界の強靭さをみとめながら、自分というもののなんでもなさを再確認していく。「君と世界の戦いでは、世界に支援せよ」(カフカ)――それはほんとうは、耐え難い作業だ。「新聞に」「のらない」程度の「きみ」や「ぼく」……確かにそれは特別なことじゃない、当たり前のことだ。筆者の幼なじみが死んだときだってそうだった、新聞にはのらなかった。まだ少年だった筆者は彼の死亡記事を必死で探したが、見つかることはなかった。……そうやって少年のぼくたちは、自分自身がなんでもないものであることを確かめていきながら、大人になっていく。世界とつながっていく。だが、その「なんでもなさ」は、この自分自身を揺るがし危うくするものでもあるのだ。
そして「ぼく」はあえて、その場所に立とうとする。ノックアウトを恐れずに。
そしてぼくはオレンジの
オレンジの朝をにらむ
曲がり角や
真っ直ぐなみちや
日が沈む屋上や
そんな弱りきった
ぜんぶの呼吸までずっと
ずっと (第三連結尾)
その場所から、なんでもないものを、にらむ。ぜんぶの「弱りきった」「呼吸」までもを、「ずっと」「ずっと」にらむ。このにらみは、そのまなざしに憎しみが込められているわけではなく、ただじっと眼をこらしておくためだけのにらみだ。いまも弱いもの、なんでもないものたちが殲滅されていく、その光景を、すべて自分の視界にあるものとして引き受けようとするまなざしだ。「カラス」が鳴いても、その痛みは「分かってあげられない」。けれど「ぼく」はここから「きみ」を見ているから。一日一日弱りきって歩いていく、「きみ」を見ているから。そのように詩のなかの「ぼく」はつぶさに見届ける、ひとつずつの生き死にを、すべてが今日も耐え難いままに動いているということを。
なんでもない無力な自分にはどうしようもないもの、手の届かないものを、見届ける。太陽の強いひかりから「弱りきった」ものまで、「ぜんぶの呼吸」を、この眼が焼かれてしまうまで。そうやって、なんでもない場所に立って見届けられることこそ、なんでもない「ぼく」のほんとうの強さなのだ。