方法の完成




 gerige と尾上れこ。この二つの名前は、一人の書き手のものだった。その書き手は gerige として出発し、その後いくつかの名前を経て、ついに沈黙にいたったときには尾上れこと名乗っていた。

 gerige の詩の言葉の多くは、絵本を想起させる。それも、哀しい動物の出てくるものを。そのなかから少し選んで読んでみよう。

『観覧車』
 ark 現代詩大賞第一回大賞受賞作だ。この四行詩のインパクトは大きなものだった。
「ヒツジたち」が「廻している」「歯車」(=「観覧車」)は運命にまつわる喩になっているようにもとれる。それだからか、「観覧車」から見える「自分のことなど何ひとつ語ら」ずに「天国を夢見て昇ってゆ」く「風船」には、どこか悲愴なものを感じる。
 詩を書くことは不幸だというひとがいる。だがどんなかたちにせよ言葉を語れるだけでもわたしたちはまだ幸福だ。「風船」には言葉がない。その「風船」のすることといったら、「天国を夢見て」ただひたすらに上昇するだけなのだ。しかしその夢すら叶わないだろう。なぜなら彼が「風船」だからだ。

Q6.飛んでいったゴム風船はどこへ行くの?


A6.ゴム風船の場合、そのほとんどが約8000メートル
   上空まで上昇します。

   気圧差で約7倍までふくらんだゴム風船は、上空の
   約-40℃の冷気で凍結し、
   こなごなに割れて落下するという研究結果が
   出ています。

   一方上昇しきらずにそのままの形で落下した
   ものに関しても、 上昇したもと同様、直射日光や外気、
   バクテリア、雨水などによって 分解されて行きます。
   しかし、そのように落下する場合、3,900ヘクタール
   (東京ドームの834倍)の 広さに1個という割合で、
   ほとんど目に付くことはないそうです。

          ――風船専門ドットコム Q&Aより
 


 それが彼の生まれ持った運命であり、その運命の歯車は「ヒツジたち」によって休みなくまわされているのだ。この四行詩の夢のなかではいくつもの「風船」が上昇し続け、そして破裂し続けるだろう、あなたが眠っているあいだに。
 詩法としての側面をみると、この詩は写生的に書かれている。「自分のことなど何ひとつ語らない」のは実は語り手こそだ。だがその語りには完全に感情が排されているかというとそうではなくて、「せつないくらい」とか、風船=対象を推し量って言う箇所(「天国を夢見て」)に主体性の残りかすがついている。むしろこれらの主体性の残滓がこの詩にいろどりを添えている。ここで「風船」が「天国を夢見て」いるということは、「風船」は言葉を持たないのだから本来は語り手には知りえないはずで、すなわちこの箇所は語り手の視線の感情的反映に他ならない。

 gerigeはこのあと作風を保持しながら、いったんこの写生的な書法からすこし離れている。『りんね』 『サイレント』初稿 第二稿? 『童話詩「かもめの りり あびやん」』 など――代表的な作を挙げればあれもこれもと出してきたくなるが、ともかく――物語的な方向へと書法は変わっていく。
 共通して言えるのは、どの作品でも語り手のまなざしや語り口のうちに哀しみが横たわっており、それがはっきりとその詩の色彩となって出てきていることだ。先に述べたように、『観覧車』でも語り手の感情的反映が詩にいろどりを添えていた。言ってみれば自己表出的な部分が味になっていた。
 
 しかしこの書き手はその後、語り手の感情的反映を排しようとする方向へ向かう。
『記録映画』である。2001年4月ことだま詩会に出されたのをぼくは覚えている。実験的という評もついた。実際この「ちいさな部屋」に「牛」を入れること自体何かしらの実験を思わせるがそれはともかくとしても、これまでのgerigeの作品にみられるような哀しみの自己表出はここにはない。詩のなかの言葉を借りれば、「ただ」「そのまま」を描いているといえる。
 ぼくはこれはどこか俳句的だなと思っていた。俳句的というよりは芭蕉的だろうか。「古池や蛙飛びこむ水の音」を引いて比べてみてもわかるだろう。そのままである。そこにあるのは対象と、語り手のまなざしあるいは耳だけだ。すでに『観覧車』のころに芽を出していた写生的書法はここでさらに精度があがっている。
 この作品は、初め「枯土」というHNで発表された。この書き手が名前の変更とともにgerige的(童話的)な悲哀から離れていくのは、このころからだったろう。

 gerige名義で発表された(少なくともぼくの知っている範囲での)最後の作品は、『紙製午後』だ。だがよそでは「尾上れこ」名義で発表されていたりもした。
 2003年春ごろ、ぼくはななひと氏と「触発する批評」という批評の投稿サイトをやっていて、そこでこんな文章を書いている。

(略)全体から受けるぼく個人の印象を書きますが、まずネガティヴな風景だと思うのです。紙製という言葉にも思うことですが、とても薄っぺらい、折りたたんでしまえるような、簡単に破れてしまうようなすこし危うい情景が浮かび上がっていると思います。普通に考えれば起こってはいけないようなことが起こっていたり、気づかぬところで何かが進行し、また自らでも捩れを引き起こしながら、ふっと午後は閉じられます。
 全体的にあまり思惟を語りません。写生のようです(略)。ただ、まさに<そこ>を写生したということが、ひとつの思惟の表れのようでもあります。それと対峙している ということ――そのものとつながっているということがあるわけです。

 この午後の一幕一幕の流れとして、終わりに近づくにしたがってすこしずつ「僕」がはっきりとした姿を現しはじめるということがあります。
 三篇目『無果花』(いちじくは無花果ですが、これは詩行中の言葉と対応していて 文字順は恣意的に入れ替えられているようです)で「〜 まるで//行われることのなかった/結婚式のようです」とありますが、この直喩の見つめ方は 一篇目『似合うひかり』の「魚の骨みたいなしゃべる」いう直喩よりもずっと重大で、取り返しのつかないものに思われます。このまなざしの記述ではじめてすこし感情が表され、次の『砂 にて』では主語こそ明記されていませんが、動詞の動作主が三人称の場所からすこし離れている感覚を覚えます(一人称の省略にぼくには思えます)。「まだしなびていかないもの」という表現からは、結局しなびることの保留でしかない状態、表面的には危機があらわれていないもののあくまで束の間の猶予といった感触を覚えます。(時間が意識されているわけですね。)
 最後に『明かりを 消す』では、一連目での「放られる」という言い方、「ごみ箱」「部屋の隅っこ」の二度の繰り返しなどによってかなりよそよそしさが浮き立っています(話者として浮かび上がってきた者の行動だとしかぼくには思われないのに、あくまで遠い言い方です)が、次の二連目でほぼはじめて明確に内省する主体(見、思うことを語る「僕」)が現れます。しかも、それまでは外からの・絵本の語り手のような存在であった主体自らが いつの間にか囲い込まれた「部屋」によそよそしい感触ながらも残される(午後にたたみこまれてしまった/引き入れられてしまった?)という苦い風景です。そして明かりは消され、一連の寸劇は幕を閉じます。

 ただ、ネガティヴだといいましたが、あくまでずっと淡々とした口調で語られているわけで 直接的な嘆きの表現など見当たりません。むしろともかく写生によって、感情や思惟が読者であるぼくのものとして浮かび上がってくるわけです、ですからぼく以外の読者は何のネガティヴさも感じないかも知れませんし、そのあたり読者に放り投げておくことで作品の広がりが成り立っているな、と思います。
 またすこしずつこわれていく風景をどうすることもなくそのままにし、(また明らかなかたちではありませんが、語るうえで自らも進行に関わり、)最後には自分の手で終わらせてしまうあたりが、どうにもこうにも、と思います。
 

 今回述べるにあたってあらためて語り直そうかとも考えたが、さして目新しいことは言えないのでこのままにしておこう。
 文中でも触れているが象徴的なのは『明かりを 消す』での「僕」の現れ方で、それまで(過去のgerige作品)は語り手の思惟がそのまま対象の記述のなかへ反映されていた(いってみれば語り手の感情は語る対象のすがたかたちへ滑り込んでいた)のだが、ここでは風景vs「僕」というふうに、分化されている。この書き手のgerigeという名前との訣別のことを考えると、「鳩ともさよならです」という一行は象徴的に思われてならない。

 尾上れこと彼が名乗り始めてからしばらくして、彼は「痙攣」に参加する。発表されたもののなかから、九号(2002年10月)に出された『行方』を読んでみよう。
 gerige時代によくみられた「ですます調」が現れているが、gerige時代のそれがどこか別の世界のことを語っていたような、おとぎ話的な語り口として捉えられえたのに対して、ここで語られているのはより私たちの生きている世界に近いところだ。また、以前は作品中で主題が意識的に語られていたのに対して、ここでは主題の読み取れるのは作品のタイトルによってでしかない。
 ここにいるのは案内人(ガイド)だ。読者はツアー客になって、語られた風景をめぐる。観光しながらぼくは、……「解体」「作業」が「中断され」たまま放置されている「鮫」はもう腐っているかも知れない、すぐそこは「海」なのに、もはや「鮫」は宙ぶらりんな状態のままでどうしようもなく帰れないでいる……などと思いを馳せる。だがそういった思惟は実際、読者に完全にゆだねられているのであって、案内人(ガイド)は何の感情も差し挟まずに淡々として語るのみだ。

 尾上れことしての彼はこのあと沈黙する。どんな理由があったかはわからないが、PCを売り払ってしまったそうだ。事実上の「痙攣」同人脱退だった。
 尾上れこ名義の多くのものでは、写生の書法はすでに完成されていて、そのバリエーションがうまれるくらいで、大きな変化はなかった。gerige的童話世界から離れ、意識はより生活へ近い場所へと向いていった。

 ぼくは以前最果タヒにこう言った。完成なんていい、そんなものまだみたくないと。実際早すぎる完成は、ランボーのように詩をやめるはめになる。――彼も、到達してしまったのだろうか。
 かつてぼくに詩を書くきっかけを与えた人物はこう言っていた。ひとは一生のうちほんのわずかなあいだだけ本当の詩人になれる。そのあとはだらだら書き続けるか、詩と訣別するか、どちらかだ、と。
 その言葉の意味について考えるとき、ぼくはいつも、いまでも沈黙したままの彼のことを思い出す。