原典:Castelnuovo-Tedesco, Mario. “Music and Poetry: Problems of a Song-Writer.” In The Musical Quarterly. Vol. 30, No.1 (Jan. 1944): 102-111.
日本語訳:原口昇平(連絡先
最終更新日:2011年6月7日
 
音楽と詩――歌曲作者の問題           マリオ・カステルヌオーヴォ=テッデースコ
 
 
  
 私はこれまでの生涯でたいへん多くの歌曲を書いてきた。私の出版した歌曲の数は(未発表のものを勘定しなければ)150以上にのぼる。また、私は自らの知るすべての言語で歌曲をつくった――すなわちイタリア語、フランス語、英語、ドイツ語、スペイン語、ラテン語だ。私の野望は――むしろそれ以上に私とともにある深遠なる衝動は――ずっと、次のようなことでありつづけてきた。すなわち、私の関心や興奮を掻き立てた詩のテクストに付曲すること、それらを解釈すると同時に叙情的表現として提示すること、それらに真正なるがゆえに剥がすことのできないメロディーの印を刻みつけてやること、それらに即して隠されていた音楽を声に出してやること、そして、そのようにしながら、それらを出現させた真の源泉を諸々の感情のなかから探り当てることだ。縮言すれば、私をせきたててきたのは「歌へ向かう欲求」なのであり、つまりイタリア人たちにとってまったく自然でありたいへんよく知られたあの欲求なのである。しかし、少なくとも19世紀のあいだ、私の国の人々は、この欲求をもっぱら劇音楽を通じて満たしてきたのだ(かかる劇音楽においてはことばの質が――しばしば単なる口実でしかなく――ほとんど考慮されていなかった)。だが私の好んだ領域はこれまで室内声楽のもっとも深奥〔親密〕なひとつでありつづけてきたのであり、また私の狙いはイタリア語や他の諸外国語におけるもっとも純粋でもっとも高雅な詩的表現に取り組むことだった。だからこそ私の付曲した詩は、アッシジの聖フランチェスコ、ダンテ、ペトラルカ、レーディ、レオパルディのものばかりではなく、ヴェルギリウスやホラティウスによるラテン語のもの、プレイヤード派、ミュッセ、プルースト、ジイド、ヴァレリーなどによるフランス語のもの、騎士物語の民衆詩人たちによるスペイン語のもの、ハイネによるドイツ語のもの、そしてシェイクスピア、ミルトン、ウァルター・スコット、シェリー、バイロン、ワーズワース、キーツ、エリザベス・ブラウニング、ウォルト・ホイットマンによる英語のものであった。こうした長い経験と献身ゆえに、私は、いくらか基本的な知識をもって歌について話すことができるのではないかと考える。また同じ理由で、私はこの短い論考においてこの楽曲形式から生じたある難問に取り組むつもりである。しかしその領域を汲み尽くせようとは思わない。その領域はあまりにも広すぎるのだ。むしろただ私の所見が誰か他の方をさらなる探究へ駆り立てることを願うばかりだ。
 「歌へ向かう欲求」……ほとんどの大家がそれを主張し、また私も同じように信じているところのものだ。それは、おそらく、原始の人間がはじめて音楽的表出を行ったことの理由なのだ。そして音楽は、疑いなく、芸術的表出で彼のはじめて行ったもののうちのひとつであった。彼は(喜びや悲しみといった)基本的な感情を(ことばで、またうたで)表現したり、自然を超越したものに対して嘆願したり、戦闘の合図をしたりせずにはいられなかったのであって、その結果、愛の歌、宗教の歌、祝賀の歌、戦闘の歌が生じたのだ。そうした歌ははじめ口承伝統によって伝えられ、その後より文明化した時代になると耐久性を持った文書に収められた。同時に、より文明化した時代では詩と音楽の結びつきがより明確に芸術的なかたちをとりはじめた。かかる結びつきはただちに多様な、特殊なジャンルを生み出した。それはまず、人間の共同体の切望や欲求にしたがって、いくつかの(少なくとも見かけの上では、互いに大きく隔たった)「枝」――物語歌、宗教歌、祝宴歌、叙情歌、劇的な歌――へと別れた。叙情的表現は私たちに主として現在の目的へと関心をむけさせるものであり、「主体的」で「個人的」な衝動を満足させるタイプのものである(他方、他のジャンルはより「集団的」欲求に応ずるものである)。そして叙情的歌曲それ自体はさらにずいぶん開きのある二本の枝へ伸びていった。さて、そのかたわらに、民謡がある。天性の無名なる芸術家たちによって種を蒔かれ、豊かに実った自然の産物だ。他方に、詩と音楽をより意識的に融合させた結果より洗練され高められたジャンルがある。それは(とくに中世、ルネサンス期を経て18世紀まで)知的かつ貴族的な宮廷芸術として役立ってきたタイプのものである。しかし付け加えておかなければならないのだが、民謡と同様に、しばしばそれらは剛健で力強い、とても独特な個人による特色を帯びていたのだ。偉大なる芸術家たちは、(近代も含めて)いつの時代も、自らのもっともうまくいったもののなかでは、民謡の素朴で健康的な魂を自らのより豊かでより個人的な語法のなかへと吸収することに成功してきたのである。ともかく、このように言えるはずであろう。歌曲が豊富にある時代にはいつでも、叙情詩が全盛を迎えていたのであって、そして両者の割合は多かれ少なかれ一定の比率をとってきていたのだ。この並行して存在する二つのものはもっとも興味深い研究題目をもたらしてきた。そして私の知る限り、部分的な調査は行われてきたかも知れないが、完全な研究はいまだに存在しない。私自身(とくにこの紙面で)それを試みようとは思わない。しかし私は「善意」をお持ちである歴史学者たちや音楽学者たちにそのことを指摘しておく。そしてとくに魅力を示すはずのいくつかのことを示唆せずにはいられない。何も古代ギリシャへ立ち戻らずともよい(あいにくわれわれにはその音楽のことはほとんどわかっていない)。トルバドゥールたちの芸術、イタリアの〈アリア・ダ・カーメラ〉に対するアルカディア派の詩の影響、ドイツ・リートとロマン派の詩との関係、(フォーレ、ドビュッシー、ラヴェルらによる)フランス近代歌曲と象徴派・印象派の詩との関係を思い出せばよい。これらのうちとくに後半のふたつでは(資料が近年のものであるため研究しやすいのだが)その証拠は決定的であろう。私の思うに、もしも詩人たちがかつて音楽家たちに霊感を与えては彼らを突き動かすだけの詩を何百も(とくに音楽にふさわしい形式で)提供することによって種を蒔かなかったならば、ドイツ・リートがこれほど力強く豊かに実らなかったはずだ。音楽家はときには偉大な詩作品よりも中程度のテクストを好んだとか、注目に値する傑作を残すことを彼らの才能が彼らに許さなかったのだとか、ひとはいうことがある。しかし私はこう答える、ゲーテなしには《魔王》や《糸を紡ぐグレートヒェン》のような「奇跡」をわれわれが得ることはなかったのであって、またハイネがいなければ愛の連作歌曲のなかでも最高傑作たる《詩人の愛》をわれわれが得ることはなかったのだ、と。またフランスに関していえば、近代音楽家たちへのボードレール、ヴェルレーヌ、マラルメ、メーテルランクの影響は明らかである(印象主義絵画の影響も同様である)。とはいっても明らかなのはおおむね彼らの様式への影響であって、そのことはテクストと十分に結びついていない彼らの音楽作品の示す通りである。
 
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 さて、やむを得ずあまりにも速く進んできたが、近代へたどりついたところで、いったん、歌曲を書くにあたって今日の作曲家たちの直面している諸問題を考察しておきたい。私がここで論じるのは、単一の楽器(今日ではピアノ)による伴奏つきの、もっとも単純でもっとも基本的な形式による独唱歌曲である。明らかに、管弦楽伴奏の歌曲は、他の可能性を提供し、作曲家に他の努力を強いるものである――たとえば、さらなる多様性とより広範な次元とをである。
 何よりもまず詩の選択が問題だ。それがそう簡単にはいかないことだと私は知っている。すでに述べたとおり、リートの作曲家たちは彼らと同時代の、同様の「気質」をもったロマン派の詩人たちによる詩から幅広い選択肢を見いだしていた。同様に、19世紀末にフランスの音楽家たちは、「黄昏」の詩人たちのなかに、同類の精神を見いだしていたといわれる。しかし彼らの扱ったものと同じテクストへ立ち戻ることは無用であるか、少なくとも危険である。ひとはそれらの解釈に困難を抱えるものだ――うまくは言えないのだが、しかしいわゆる「決定版」の型で解釈を行ってきた名高い音楽家たちでさえそうだった。再付曲はせいぜい同じ経験の焼き直しになるくらいだ。本質的に異なる解釈を試みるには、以前の作曲家たちに対して私たちはまだあまりにも近すぎ、そのせいであらわれるべき個性的な表現が妨げられているのだ。そのように、より近い過去の人物で、少なくとも当面は新鮮な解釈を受け付けない詩の作者たちはいくらもいるけれども、その例外もおり、そのうちひとりについてのみ私は言及しておきたい。その例外というのは、すなわちハイネである。ハイネの憂鬱で感傷的な側面を、ロマン派の音楽家たちは実に頻繁に、実にうまく、表現してきた。しかし、ハイネの皮肉で辛辣な側面を、彼らは完全に無視してしまった。(おそらくより懐疑的ではあるけれども多様かつ微妙なニュアンスによりしっかりと対応できるであろう)われわれ近代の作曲家たちにとって、ハイネはいまだに複数の可能性をもたらしてくれる。私自身、ロマン派の作曲家たちが「冒涜的である」と信じて疑わなかったところの二つのハイネの詩にかつて付曲した。「ティー・テーブルにて Am Teetisch 」と「奇跡の夢 Der wunderbare Traum 」である。おそらく私たちがなかなか同時代の詩に首尾よく付曲しえないのは、それらがたいてい(きっと時間の問題だろうけれども)作曲家の好みからいってあまり魅力をかきたてるようなものになっていないからだ。同時代のものはときには退屈な詩であったり、またときには知的ゲームとしては興味深いけれども他の芸術家のこころの琴線をかきならすにはあまりにも難解すぎる韻文とリズムの集合であったりする。私はいま「韻文」と述べたが、それというのも韻文の集合体をつくることが詩を、とくに音楽的な詩をつくることであるとは必ずしも限らないからだ。たびたび、芸術的な散文は、賢明にかつ調子よく配列されたリズムを持ちながら、並の詩よりもずっと強い示唆を音楽家に与えるものだ(そしてそれよりも大きな技巧的問題は存在しない)。例としてはピエール・ルイスの散文にもとづく《ビリティスの歌》を挙げよう。その曲のなかでドビュッシーは自らの感受性によるたいへん洗練された実例をわれわれにもたらしている。とはいっても、次の二つの議論の余地なき傑作、すなわちメーテルランクの戯曲にもとづいてドビュッシーの制作した《ペレアスとメリザンド》と、プーシキンの戯曲にもとづいてムソルグスキーの制作した《ボリス・ゴドゥノフ》は、さらにその上をいくものである。(私自身は、これまで、韻文で書かれた同時代の数多の素晴らしい作品よりもむしろ、散文で書かれたマルセル・プルーストの『断章集』によって深く霊感をもたらされてきた)。
 「だが」、ひとはこう問うだろう、「付曲に関する適性として必要な詩の質とはなんだろう? 理想の詩とはどんなものか?」もちろん、答えがたい。その答えはとくに作曲家の感受性や、また作曲家の好むジャンルしだいである。作曲家のより強く偏愛するものが、劇的なものか叙情的なものか、それとも開放的なものか感傷的なものか、それしだいだ。まったく同じように、あらゆるものに共通する必要条件がいくらか存在ある。まずは本質に関わるところのものについてで述べよう。詩には「表現の核」があるべきだ。そしてそれは、音楽家の好みがあるべき状態に関してどんな性質をもたらすにせよ、「魂のありさま」を表現しているべきである。詩は、どんな場合であれ、作曲家の精神のなかに「共振」を喚起する能力を秘めているべきである。詩は「魂」を完全に、単純に、直接に、明快に、調和のとれた形式で、豊かに、あまり多すぎることばをともなわずに、表現すべきである。ある種の「余白」が音楽のために残されているべきである。この観点から、個人の内心に即した控えめな詩は、たいへん朗々とした装飾的な詩よりも好ましい。(典型的な事例のひとつについて言及しておきたい。イタリアの大詩人ガブリエーレ・ダンヌンツィオは、たいへん豊かな語彙に恵まれており、ある種の圧倒的でけばけばしいことばの音楽を創造することに耽ってきたように思われるのだが、彼の詩は作曲家たちにとって真に困難なものである。私の思うに、それこそが、彼の詩に対する付曲の試みがめったに成功しないことの理由である。ただし注目すべき例外がひとつある。それはピッツェッティ作曲《牧人たち I Pastori》である。)  条件はまた他にもある。規模、形式に関する条件である。詩は長すぎるべきではない(ただし声と管弦楽のための歌曲は例外である。前述のとおり、その種のものは他の可能性をもたらす)。他方、短すぎるべきではない(連作歌曲は例外である)。やはりこの観点から見て、ロマン派の詩人たちはロマン派の作曲家たちに理想的なテクストを提供したのだ。単に表現力豊かなばかりでなく、多様で、調和のある、理に適った長さのテクストだ。イタリアの素晴らしい詩は、しかし、この点において多数の困難を示している。『神曲』に付曲することはできない。もっとも小さな形式のなかでも、ソネットは(イタリアの詩人のもっとも好むものなのだが)は音楽にはもっとも適していない。というのも第一にその内容がたびたびあまりにも哲学的すぎたり知的すぎたりするせいだ。第二に、その形式がおよそ過度なくらい厳格だからだ。第三に、八行二連と六行二連を異なる楽節で処理することが難しいからだ。「カンツォーネ」や「バッラータ」といったもっとも厳格でない形式や自由詩は総じて好ましい。
 
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 前述のように、同時代の詩はたいてい作曲家たちを作曲へと駆り立てない。しかし、私たちにはあらゆる国々の、あらゆる言語による文学における過去幾世紀も受け継がれてきた遺産がある。そして私が外国語について語るとき、私は翻訳ではなく原語のテクストを内心に抱いている。詩の翻訳はほぼどんなものでも「背信である」(翻訳者 traduttore は背信者 traditore なのだ)。たとえ内容で裏切るようなことがなかったとしても、リズムや形式で裏切っているのであって、こうした要素はたいへん重要で本質に関わるものであるから無視されてはならない。
 このことは私たちをさらなる別の問題へと導く。諸言語の「音楽性」というたびたび議論される問題である。その疑いなき性質はあることばと他のことばとではある程度異なる。しかし、(少なくとも、私の得てきたいくらかの経験に照らしあわせたところ)各言語はそれぞれ固有に特別な表現の可能性を有しており、その可能性は精製するための苦労をするのにふさわしいほどのものだ。
 ひとが私にこう尋ねたとする。もっとも音楽的な言語とは何か? 私は当然のごとくこう答えるだろう。「イタリア語です!」第一に、それは私の言語だからだ。第二に、それは歌うためにはもっとも心地よく易しい言語であると全世界で認められているからだ。わかりやすく、表現力豊かで、朗々として、素晴らしくよく歌に向いていて、なぜイタリアがベル・カント発祥の地と見なされているのかひとは容易にわかるだろう。しかし私の母語を私が敬慕し偏愛しているからといって、私が他の諸言語の特性を認識できなくなってしまうということはない。フランス語は、熱烈な感情の爆発には疑いなくあまり適していない(そのため歌にも適していない)ものの、繊細であって、より研ぎすまされたニュアンスに向いている。スペイン語は、イタリア語と似た性格をたくさん持っているが、しばしばより厳しい硬度をもつ(そしてまたその代償として気だるい軟度をもつ)。ここまでに述べた諸言語の母であるところのラテン語についてはあまり多くを語らず次のことをただ書き留めておくことにしたい。概してラテン語はとくに聖なる目的にふさわしい言語として、つまり祈り手の言語として、尊ばれている。ひとは、幾世紀もつづいたラテン語による豊かな文学を忘れがちである。私は思い出すのだが、フィレンツェで私が学び始めたころ、私が〔ラテン語聖書の句にもとづく〕モテットではなくヴェルギリウスの田園詩にもとづく合唱曲を書いたことを理由として、その音楽学校の校長が憤慨したのだった。私は一度もギリシャ語に挑戦してこなかった(私の学習初期の記憶はもはや遠い)うえに、ヘブライ語については私は合唱曲をただひとつ書いたのみだ。ドイツ語は称賛に値するほど豊かな言語であり、ドイツ語の雄弁の力強さでは群を抜いている。その力強さは、声楽に、他の諸言語の場合ではおよそ説明のつかないほどの飛躍を可能にさせるのだ(そしてまたワーグナーが翻訳不可能なのはそのためなのである)。
 さてこの私の論述では英語が最後に残っている。それは私が英語をあまり音楽的でないと見なしているからではなく、むしろ反対に、英語の音楽性がこれほどたびたび疑われていることに私が驚いているからだ。白状してしまわなければならないのだが、私は、いささか過剰な不安を抱きながら英語に取り組むほど、これまで好ましくない状態に置かれてしまってきていた。私がはじめて英語と出会ったのはシェイクスピアを通じてのことだった。そのとき私は『十二夜』のいくつかの部分に付曲していたのだが、私はイタリア語訳版に満足することができず、原文に触れようとして、あることを発見して驚愕しつつ大いに喜んだ。それは、英語が完全なる美を備えているということだけではなく、めざましい音楽性をも持っているということだった。私は休むことなく、悲劇や喜劇に含まれるテクストのうち私に歌の着想を与えてくれたものへすべて付曲せずにはいられず、またストックしておいたテクストをすべて消化してしまうともう不幸な気分になってしまったのだった。シェイクスピアのなかにこそ私は自らの理想を見いだした。そこには人間の持ちうる最高の豊かさが、最も深遠なる心理的洞察が、きわめて柔軟で多様な詩と一体化していたのだ。私はシェイクスピアのテクストに付曲しながらたびたび自問した。私は、エリザベス朝時代の様式で作曲することに、つまり歴史的評価に、とらわれてしまっているのではないか? 答えは「否」であった。なぜならシェイクスピアは私にとってあらゆる詩人のなかでも(ダンテすらをね)もっとも生き生きとしていてもっとも近代的であってもっとも永久普遍のものでもあり、さらにまたひとりの「同時代人」であるかのように私には感じられるからだ。シェイクスピアののちにシェリーがあらわれ、それから先に私の言及したところの他の詩人たちが来て、最後にあの素晴らしい友愛に満ちた魂、アメリカの詩人ウォルト・ホイットマンがやってくる。もちろんシェイクスピアやシェリーの英語は通りでひとが話すようなことばではないけれども、彼らの詩的言語は最高の音楽性を備えた言語である。そしてまた私の思うに、ひとは、ドイツ・リートの作曲家たちに貢献したドイツ・ロマン派の詩にも匹敵するほどの富を、英語で書かれた詩の傑作のなかに見いだしうるはずだ。
 もちろん、英語は、歌曲作家にとって著しい困難をいくらかもたらす。たとえば、英語には単音節の語がとてもたくさんあることだ。単音説の語をひとつの表現様式ならびに正しいアクセントで旋律全体へ分配することは難しい。しかし、その一方で、ことによると、朗々と響くものが著しく欠けていることはきっと英語に魅力を与えることもあるうえに、私の知る諸言語のなかでも、もっとも「霊的」で純度の高いもののひとつともなるのだ。
 
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 すでに私は「歌」「旋律」「アクセント」に言及してきた。さてここで私は、それらのことを、作曲家に立ちはだかる他のいくらかの問題や困難とともに、再考し直すことにしたい。
 「歌」とは何だろうか? 定義することは難しい。根本的に、歌とは「神の贈り物」であり、人間の魂を救い出すものだ。また私がこれまでにもたびたび述べてきたとおり、私がもしも過去の偉大な音楽家をねたんでいたとしたら、フーガを理由としてバッハを憎んでいるわけではなく、交響曲を理由としてベートーヴェンをそねむのでもなく、あるいは楽劇を理由としてワーグナーを恨むのでもない。しかしきっと、最も簡潔な数作のリートを理由として、シューベルトをうらやんではいるかもしれない。たとえば《君は安らぎ Du bist die Ruch 》や《連祷 Litanei 》といった奇跡のような魂の華であり、友の微笑みや優しい涙と同等に慰めとなるものだ。
 けれども超越的な説明で満足したくなければ、より積極的で満足のいく説明へと至るために「アクセント」を定義づけてこおう。アクセントは、旋律をつくりながら、一語のなかのいくつかの音節、一句のなかのいくつかの語、一文のなかのいくつかの句をひとが際だたせるときに生じる表現の特性である。リズムのこの側面、この表現の起伏、この正当な韻律法だけが、歌にとってすべてなのではない。朗誦は(しばしばたいへん効果的にもなるが)まだ歌そのものではない。歌は、それを具現化しつつ、それを超越するものでなければならない――ひとつの綜合、昇華されたものとならなければならない。アクセントの配置は機械的な過程である。またあらゆる自覚的な音楽家たちはそれに熟達している。そして他方で、完全なる歌は芸術的創造の産物であり、その創出は感受性と想像力の両方に恵まれた数名の運命づけられた才能ある芸術家にのみ許されている。
 他にも問題がある。歌声に関する知識をいかにして得るかということだ。とはいえ、それは二次的な問題であって、直感的にも解決されうる。真に歌を「感じる」音楽家たちはみな声楽によく適した曲を書くものだ。まずく書いてしまうのは、特別な要求を満たすことを機械的な過程であるかのように考えている作曲家たちだ。どんな場合であれ、私たちは、この結びつきにおいて、多様な諸言語のそれぞれ異なる本性に注意しなければならない。すでに指摘した通り、イタリア語はとくに素晴らしく朗々たる表現力をもっている。フランス語と英語とは(私の思うに)より抑制された感情の領域を表現する。ドイツ語は他の諸言語では道理に反するような声の跳躍を可能にする。
 さて最後の問題は実践に関わるものだ。実際にいかにして歌をつくるかである。それは完全に個人的なものだ。それに私が新鮮味のない理論を広めようとすることを天は禁じる。納得のいく結果をもたらすならばどの体系もそれぞれによい。たびたび私や仕事仲間たちは(とくに一部の女性から)こんな問いを投げかけられることがある。「どうやって作曲するのですか?」もしくは「いかにして詩に曲をつけるのですか?」さらには「どのようにして着想を得るのですか?」などといったものだ。たいへん答えがたい問いだ! とはいえ、若干のことなら言えるかもしれない。たとえば、第二の問いに関して、私ならばこう答えそうだ。強く私の関心を引いたり私の感情を喚起する詩に出会うと、私はそれを記憶に焼きつけ、同時に自然とその形式や性格や文句の配列ならびに可能な対比などなどを分析する。そしてしばらく経っていわば詩がすっかり私の血のなかに入り込んでから(それには一日から数ヶ月かかるだろう)、私はそれをおよそ自然に歌うようになる。そうして音楽が生まれるのだ。私にとって詩を愛することは詩を知ることであり、それは詩を歌うことなのだ! 声楽のパートはそのようにしてできる。とはいえ歌曲のなかには器楽のパートもあり、それはふつう「伴奏」と呼ばれるが、その呼称が歌曲のうちもっとも重要でない部分もしくはもっとも展開の容易な部分ということを意味しないにも関わらず、あたかもそのような呼称は副次的性格をそれに負わせるためであるかのようだ。それを適切につくるためには、ふさわしい雰囲気を見出さなければならない。すなわち、「背景」、声楽の旋律線を取り巻きつつ展開させる周囲の状況だ。それは、声楽だけでは表現し得ないものを器楽を通じて表現するということであり、究極的には、まったく分離できない完全な統合体を形成するために旋律線と結びつけられるところの何かをつくるということだ。この何かしらのものは詩のなかにも存在している。必要なのはただそれを見つけることだけだ。ちょうど声楽パートが詩から生まれてくるように、伴奏もまた詩によって(作曲家の直感ならびに分析を媒介として)浮かび上がってくる。それは詩のなかに潜在しているのだ。すでに述べたように、あらゆる音楽のための詩 poem-for-music は、何よりもまず、「表現の核」を持っていなければならない。ひとつもしくはいくつかの根本的要素によって形成されるだろうその核は、詩それ自体への手がかりをもたらすものだ。この手がかり、こうした諸要素こそが発見されるべきものであり、またそれこそが「象徴的」ともいうべき音楽的手段を通じて語るのである。すでに述べたように歌曲はひとつの綜合である。そして伴奏それ自体も綜合なのである(とはいえ矛盾するかのように見えるもののそれは分析の及ばないところで発展するのだ)。この「象徴的」手段とはいったいなんであろうか? それらは様々な異なる本性に属するものだろう。とはいえこう述べておいたほうがいいだろう。もっとも簡潔なものこそがもっとも確かで効果的なものとなるだろう。私自身、私の最初に書いた歌曲で、和声においてもリズムにおいてもいくぶん複雑な伴奏からはじめたものだった。その後、いつも、理性よりもむしろ本能を通じて簡潔なものをつくることをこころがけるようになった。たとえ、誰かにとってはあまり「興味深い」もののようには思われなくなったとしても、私はもっとも簡潔かつもっとも自然な手段によって自らの思念を表現するようになったのだ。(もっとも偉大なリート作曲家たちがわたしたちに模範を示しているが)こうした多様な「象徴」を成り立たせるものは、(ときには声楽パートに含まれる場合もあるような)旋律のある要素もしくは基本動機や、また(同様に声楽パートからの派生物であったり、あるいは反対にもっぱら声楽パートに対置されたりする)リズムや、instrumental figuration〔楽器の特性を生かした装飾?〕(何百という名高い模範がわれわれにはある。私に関していえば、たとえばシェイクスピア歌曲《立ち上がれ Arise 》のために単純なアルペッジョを用い、またアンドレ・ジッド《よき不動産のバラッド》のために半音階法を用いている)や、そして一連の和音や単一の和音といった和声の要素である。(いくらか興味深いことを書き留めておこう。私は、シェイクスピア『ハムレット』による二つの歌曲《オフェーリア》《教会墓地に眠る道化師》を書くにあたって、その二曲を Es G A D という和音にもとづいて構成したのだった。そしてのちに、《「ハムレット」のための序曲》を書き始めたとき、冒頭の主題がいつの間にか意識せず〔自然と〕同じ和音にもとづいてつくられていたのだった。このことはおそらく次のことを意味しているだろう。つまり、この和音が著しく「ハムレット的 Hamletsque 」であるか、もしくはこの和音が私の潜在意識において「ハムレット」の観念と結びつけられているかだ――この謎は精神分析家に任せることにする。)
 
 この議論は私の意図していたよりもずっと長いものとなってしまった。
 はじめに、歌は人類による最初の音楽的表現だったということを私は述べた。思うに、きっと最後のものでもあるだろう。人間のつづく限り、人間は歌うだろう。そして私にはその「いまわのきわの暇乞い」もまた歌なのではないかと思われる。しばらくはわれらの歌よ生きてあれ。
 それからある期待を述べさせてもらいたい。英語の話者(とくにアメリカ人)は、私のようなイタリア人をとても楽しませてきた自分たちの見事な詩のなかに、人類の幸福と友愛のたかまりへむかっていく英語の歌文化にとっての豊かな着想の源を見出すはずだ。ちょうど、彼らの偉大なる詩人ホイットマンがかつて願ったように。