典拠:Castelnuovo-Tedesco, Mario. Neoclassicismo musicale, in 《Pègaso. Rassegna di lettere e arti》, I/2, 1929, pp. 197-204.
訳者名:原口昇平(連絡先
最終更新日:2011年12月31日  ※引用の際には典拠、訳者名、URL、最終更新日を必ず明記
 
新古典主義音楽       マリオ・カステルヌオーヴォ=テデスコ
 
 新古典主義音楽。この名称は、あまりよくないうえに適切でもない。この点でわれわれの意見は同志ラブローカと一致している。だが、正々堂々たる芸術家たちの言葉遣いにおいて、習慣的にすでに認められた他の名称と同様に、この名称も現在では一般によく用いられている。そして、われわれが音楽をつくりながら横切っていくこの時代の性格をどうにか明らかにしたいと欲する以上、この点を再び問い直さなければならない。
 しかし〔その前に〕ざっと先達を思い起こしておいても不都合ではなかろう。今世紀においては、音楽の動向はおよそ10年ごとに変わっているようだ。最初の10年間は、万国の音楽はドビュッシーと〔リヒャルト・〕シュトラウスというふたりの至高の重要人物に支配されていたかのように思われる。前者は、和声の新たな結びつきをはじめて確立した人物であり、また思いがけない詩的興趣の扇動者でもある。後者は、ヴァーグナー主義やリスト主義の流れの継承者であり、(少なくとも表面上は)拡大者でもある。直接の成功においてではなく歴史的重要性や批評的評価において、ダンヌンツィオが繰り返し主張してきたような「クラウディオ・ディ・フランチャ」*1 のけがれなく気高き姿が勝っている。同様に、次の10年間では、ドビュッシー風の美学がふたたび花開きまた衰える一方で、シェーンベルクとストラヴィンスキーという新たなふたりの重要人物が成功をおさめる。前者はヴァーグナー主義の半音階的和声を極端な結果へ導き、ついには無調のなかに分解させた。後者は穏健な印象主義に対し凶暴なリズムとけたたましい音色を爆発させ、圧倒的に生き生きした作法で印象主義者のため息やシェーンベルク風の息切れしそうなあえぎを止めさせた。これがおよそ〔第一次〕世界大戦までの時代である。危機の時代であり、芸術においては人間の生におけるのと同様に、苦しい探求、大胆な発展、必死の冒険の時代である。芸術の結実のなかに時代そのものの評価が求められた時代、人間の力のなかでももっとも驚くべき労作が打ち立てられた時代である。音楽史上、これほどまでに天才たちの熱意が革新への思いのなかでひとつになり、これほどまでに精神の緊張が見られたことは、滅多にない。
 大戦が終わり、1920年代になる直前、生や芸術と常に同調しつつ、新たな渇望や新たな必要性が現れてくる。白熱した爆発的な状況が少しずつやわらいで、芸術は、均衡、秩序、明確化の時代を歩き続ける。音楽家たちは、和声やリズムや音色をめぐる近年の成果をより堅牢で熟成した構成のなかへ配置しようとし、また拒みがたく避けがたい伝統の連続性と、同時代の精神の公準とのあいだに和解をもたらそうと努める。天空にストラヴィンスキーの星がふたたび輝きを得た。そしてその傍らで、一瞬でもストラヴィンスキーより高みにあった幾人かを除いて、数々の活発な天才たちが単独か集団かを問わず豊かに栄え、成熟をつづけている。こうした天才たちは前の段階ですでにはっきりと姿を現していたのだが、いまや新しい星座に属して上昇し輝くのである。フランスには、ドビュッシー風の美学ともっとも若い世代の熱情とを結ぶ環のようなものをなしているラヴェルがおり、またオネゲルを輩出した6人組がいる。ドイツにはヒンデミットがいる。ハンガリーにはバルトークとコダーイがおり、そしてロシアでは、ストラヴィンスキーの傍らで、プロコフィエフが名声を得ている。スペインではド・ファリャのなかにアルベニスやグラナドスの継承者が見出される。イタリアではプレアデス星団のような作曲家たち(ピッツェッティ、レスピーギ、カゼッラ、マリピエロその他)が名声を高めている。最後に、スイスに生まれいまはカリフォルニアに住むエルネスト・ブロッホがいる。彼はアメリカ精神からもヨーロッパ精神からも等しく距離を置いていて、数千年にもわたるユダヤ人の精神と伝統を呼び起こすことに身を捧げており、孤独で考え深いように思われる。
 こうして形成されたのが、いやより正確を期していえば、こうして人々に認められたのが、さまざまな国民楽派である。これらが実に多様な民族性をたたえているのは、次の事実にも起因する。作曲家たちが、ヴァーグナー以後の半音階を極端に推し進めた展開に反抗し、うたの水流を清めるために、民衆のうたの澄みきった水源へ向けてそれぞれ異なる道をさかのぼっていったことである。そういったうたの水源は、それぞれの祖国で異なる様子を呈している。これらはもちろん作曲家たちの作品のなかに反映されており、かかる泉によって彼らの渇きは癒された。どこにでも、どの作者のなかにも、民衆の、あるいは民衆風の旋律がある(たびたび、そして多くの場合、音楽家たちは〔民族の〕精神を吸収したあと、自由に創作したのだ)。ロシア、ハンガリー、ボヘミア、それからスペインの音楽について、あまりにも有名ないくつもの例を示さなくてもいいだろう。むしろ次のことを強調するほうがよい。すなわち、イタリアでは民衆のメロス〔melos〕の根底でたいへん簡素な語法が生まれたわけだが、それと同様に作曲家たちもうたの根本にある源泉へさかのぼり、いくつかの旋法やグレゴリオ聖歌の調べのなかに最も遠く最も澄み切った水脈を発見し、源泉と見なしたのだ。第一人者の栄光は、日付や功績の点から、イルデブランド・ピッツェッティのものである。1906年、彼は革新的な様式による《ガブリエーレ・ダンヌンツィオ「船」のための音楽》で、前述の流れを近代的感性の領域に投げ込み、またそれ以後の自らのすべての作品のなかで実力をひとびとに認めさせていった。
 だが、ひとたび民衆芸術との接触によって諸々の精神が清められ、むしろこうした要素が飽和状態に達すると、作曲家たちはいっせいに形式を単純化するようになっていく。そして彼らは、絵画や文学の影響に依存せず、簡潔で明快な音楽をつくろうとすると同時に19世紀的またはロマン主義的な主観主義から逃れようとつとめ、明瞭で非の打ち所のない模範としての18世紀音楽へ向かうのである。近代音楽のなかに18世紀音楽へのノスタルジーが姿を現したのは今回が初めてではない。すでにドビュッシーがチェンバロ奏者たちに関する研究を援用しており、またもっとも近代的で情熱的な強弱法を用いながらみごとな《ラモー礼賛》を書いて自らの考えをあらわした。彼の後ではラヴェルが、クープランの墓のうえに花の冠を捧げるかのようにして繊細なピアノ曲の連作を並べた。われらが〔ジャン・フランチェスコ・〕マリピエロも一度ならず6人組の音楽や18世紀をまなざしてきた。18世紀への回帰はまずドビュッシー風の潮解のなかに、次いで初期ストラヴィンスキーの暴力性のなかにあらわれたのだが、今度は「古きものへの回帰」による静かで柔和な諸形式をとることになる。
 「バッハへの回帰」? 私は信じない。現行の音楽ほど、バッハの形式観のみならず、バッハの精神的趣向から遠いものは他にないように私には思われる。だが、かかる定義から逃れることは難しいだろう。今となっては抗議してもむだだ。ストラヴィンスキーを筆頭とするかかる運動の参加者たちが、はじめてアメリカの大地を踏んだとき、悪いことに、自分たちの進歩の証人としてバッハを「偉大なる先導者」と呼ぼうと考えた。こうしてバッハの聖なる名前が記者たちの話の種になったのだ。記者と呼ばれるこの連中は、周知の通り、〔はじめ〕あたかもひよこのように餌を待ち、つづいて消化の悪い餌を四方八方に撒き散らすものだ。そういうわけでわれわれは、バッハという聖なる名前があらゆる無用な理由によって繰り返されるのをいやいや聞いていなければならないのだ。とはいえ、その主張がもう少し正当であるとしても(つまり一方のひとびとがバッハに、また他方の人々がスカルラッティに傾倒しているのだとしても)、かつおよそもっと控えめであったとしても、〔やはり〕18世紀の理想と形式への回帰こそが問題になっているのである。
 この18世紀へのノスタルジーが呈する主な様相のひとつは、18世紀音楽における一連のディヴェルティメントが〔ふたたび〕制作されていることである。この折にストラヴィンスキーも、ペルゴレーシの音楽にもとづく《プルチネッラ》に着手している。またこのかたわらで、カゼッラが甘美なる《スカルラッティアーナ》をつくっている(それ以前にはすでにヴィンチェンツォ・トンマジーニが、ゴルドーニにもとづくバレエ曲《気立てのよいご婦人たち》を書くために、スカルラッティへ立ち戻っていた)。マリピエロは《チマロジアーナ》を生み出し、レスピーギはバレエ曲《気まぐれな店》のなかでロッシーニ風の音楽を用いたあと、《ロッシニアーナ》で19世紀の入り口までたどりついた。とはいえ彼はもっぱら18世紀的なディヴェルティメントの性格をずっと維持している。
 ここから、18世紀特有の形式や定型(胚胎期における組曲やソナタ)を創作に取り入れるようになるまでの道のりは長くない。1925年のヴェネツィア音楽祭 *2 は爆弾(あくまで無害な爆弾)のように炸裂したのだが、私の記憶では、そこでのストラヴィンスキー《ピアノ・ソナタ》は、たとえ彼の個人的な態度によるにせよ、バッハ《イタリア協奏曲》を丹念に模倣していたのだ。とはいえそれ以前にも彼は、《ピアノと管楽のための協奏曲》において、バッハ風様式の要素とジャズの響きとを結びつけようとしていたのだが、これはあまり厳密でも明確でもない特徴しか持たなかった。またカゼッラは同じ1925年の夏に《ピアノと管弦楽のためのパルティータ》を作曲しているが、その前年には《弦楽四重奏のための協奏曲》を書いており、このとき彼はすでに組曲形式と、コンチェルト・グロッソの特徴とを近代的に用いていた。とはいえ繰り返しになるが、ヴェネツィア音楽祭が〔この風潮の最初の〕「公式発表」だったのであって、〔この風潮は〕それ以来流行し始めたのだ。カゼッラによるまさに模範的な《パルティータ》以来、イタリアのなかだけでも、いったいいくつのパルティータがお目見えしたことだろうか。まったく多すぎるくらいである。――うまくやりなさいよ、旦那方!〔Faites votre jeu, Messieurs!〕――誰もがまったくさまざまなルール、ときにはチェスのやりかたで、気の狂わんばかりの敗北〔チェック・メイト〕というリスクを背負いつつ、小パルティータを試みている。*3 よく訓練され運もよかった勝負師たちのなかではモルターリ、ゲディーニ、ヴェレッティといった人々が思い出されるが、彼ら全員がパルティータを書いている。ヴィットーリオ・リエーティは他の名づけ方を探しているが、《管楽器群と管弦楽のための小協奏曲》を書いたとき、このジャンルを試みるにあたっては(より単純でより飾り気のない形式に向かう必然の傾向ゆえに)前述の人々と同じ立場にいるのがよいことを彼は思い知らされたのだった。この曲は間違いでなければ1923年にさかのぼるもので、それ以前に書かれた彼の多くの作品は、ある種のそっけなさや寒々しさからは免れていないが、明快で確かな形式感や、ときには気の効いたユーモアにも恵まれている。またマリオ・ラブローカは《室内交響曲》や《協奏曲》で胚胎期の交響曲〔シンフォニア〕を再び目指している。こういったものの大量生産はまだつづくのかも知れない。
 イタリア国内については充分だろうから、ここで外国のことを思い浮かべたい。いったい組曲、ソナタ、ソナチネ、協奏曲、小協奏曲がいくつ書かれたことだろう。形式とともに、18世紀の楽器もまた再び流行している。マヌエル・ド・ファリャは(スカルラッティの流れを継ぐスペインの古いチェンバロ奏者のものにもとづいて)《チェンバロと小楽器群のための協奏曲》を発表した。これは18世紀風の身振りと、音色に関する近代の価値観とが味わいよく結びついたものだ。他方フランシス・プーランクはワンダ・ランドフスカのための《田園協奏曲》に取りかかっていて、これにもチェンバロが用いられる。エルネスト・ブロッホにいたっては、メシア願望にいつも熱中してきたのだがついに「輝かしい孤立」から脱出し、《ピアノと弦楽のためのコンチェルト・グロッソ》を書いて今日の流行に軽々と譲歩してみせた。それでもやはりこの曲は彼の厳格な様式の名残をとどめている。
 最近作曲されたものにおいては、ピアノもまた、チェンバロのように細く辛らつで乾いた音色を採用するために、力強い高揚やビロードのようになめらかな響きを放棄しているように思われる。いくつものソナチネが生まれていて、モルターリの作品のようにスカルラッティめいた味わいのものや、リエーティやプーランクにおけるように無害なモーツァルト風のものなどがある。
 ところで和声はどうなったか? 無調の冒険や多調性が何度も実験されたあと、すべては平常に戻っている。調性は至高の教義をふたたび唱えている。そして全音階主義の晴れわたった空で、ハ長調というもっとも完璧な調が北のオーロラのように輝きを取り戻している。
 だが依然としてここからバッハまでには、はるかな距離がある。昨今の(旋律の素材、形式の枠組み、音色や和声の価値基準など多様な側面においてわれわれの検討してきた)動向においては、形式は充分問題とされるが、しかし精神についてはまったく問題とされないか、あるいはひどいことにほんのわずかにしか重要性が認められない。こうしたバッハ、否むしろ18世紀への回帰〔という傾向〕は、伝統的な定型や書法を再び用いること、またもっとも基本的なもののなかでも対位法の技巧や処理を頻繁に用いることなどのうちにあらわれている。こうした回帰は、ストラヴィンスキーやカゼッラのように熟練かつ成熟した音楽家たちにおいては、興味深く創意に富んだ移植〔=古典的形式などの上手な転用〕や、魅力があってバランスもとれた作品へと向かうだろう。他方、経験も能力も乏しい若いひとびとにおいては、発育のよくない芽や、やせ細った教条的な習作をもたらすだろう。10年前、いくらかのひとびとは、印象主義的な雰囲気を生み出すためには消え入るような和音を長々と並べさえすればよいと思っていた。それと同様に、今日、「偉大なる伝統」へふたたび入っていくためには対位法の教師めいた書法を採用しさえすればよいと考えているひとがいる。さあ、近代音楽の小学校の次は新古典主義の小学校を手助けしてやろうではないか。なぜならこの様式の流行は危機を脱していないからだ。彼らは「バッハへ立ち戻れ」という。だが言わせてもらえれば、彼らの立ち戻る先はマイナーなバッハである。たとえば《小組曲》や《小フーガ》の類、それと《二声のインヴェンション》だ。彼らはオルガン曲の大作やカンタータ、オラトリオをどうしてもほとんど省みない。また彼らのうちおよそすべての者が形式的な問題には配慮していながら、しかしそれらの作品の至高の意義については考えない。それらの作品は、形式ははかないが精神は永遠であると教えてくれているはずなのに。この時代には、《マタイ受難曲》や《ミサ曲ロ短調》に比するだけのものがない。それとも、ことによるとオネゲル《ダビデ王》やピッツェッティ《レクイエム》がそれに値するのだろうか。他方オネゲルの詩篇は劇的で見事だが、やはりある時代の様式、というよりはある混合様式をとっており、バッハの神秘主義よりもヘンデルの荘厳で装飾の多い特徴に近いように思われる。オネゲルにせよピッツェッティにせよ流行や回帰をまずほとんど気にかけていないようで、それどころか誠実な性格で身を守り、恐れず晴れ晴れとして自らの道を進んでいる。その道はもっとも着実で、おそらく偉大な作品へ至ることだろう。
 バッハの音楽が内面でわりあい深くこだましている音楽家は、少なくとも私の考えるところではただひとり、ドイツのヒンデミットだけだ。それも当然である。バッハからの伝統はドイツの国民音楽の根元につながっており、ドイツ精神のなかでその火が消えたことはない。少し前にロマン主義の潮流があふれたときでさえ、バッハ信仰はマックス・レーガーの作品のなかに生きていた。レーガーの作品はこのような二つの傾向の対立から生まれたのだ。ヒンデミットの音楽も同様の対立に由来する。その基本要素として今度は、一方にバッハの精神性と厳格な様式が、もう一方には初期ストラヴィンスキーのリズムの凶暴さと音色の饗宴がある。このような結びつきというよりは対立がなければ、作品がたびたび偽物か不完全なものになっていたかも知れないことは、あまり重要ではない。ヒンデミットが不条理なまでの形式への妄執を抱いて、オペラ《カルディヤック》の全幕をフーガやパッサカリアや変奏曲の形式で構成したとしても、あまり問題にはならない。ただ確かにこの対立から特異な個性が生まれているのだ。いくつかの作品(たとえば、対位法教師めいたうわっつらばかりの技巧からもっとも遠い《ヴィオラのためのソナタ》緩徐楽章)において、バッハから「枝々に引き継がれし」精神がうたうのを、読者よ聴きたまえ。
 ここまで概略的に検討しながら、この時代の音楽が多かれ少なかれ新古典主義的と定義される様相のもとにあることを示した。名づけ方が誤っているかのように思われるとしても、その原因となった現象は打ち消しがたい。この運動を過小評価しようとする先入観は私にはない。なぜならこの運動のもろもろの動機(整理と解明に向かう本能的な欲求、均整よく晴朗な芸術の渇望、はかなくも間に合わせでもない土台のうえに音楽の骨格を組み立たいという欲望)はむしろ明確で、評価すべきものと思われるからだ。結果的にこの現象はわれわれにいくつかの素晴らしい作品をもたらした。とはいってもそれ以外はただ心地よいだけだが。全体として、冷静な目と公平なこころをもって遠くから事態を判断することのできる者にとって、今の時代は次のように見えることだろう。つまり、きちんと組み立てられ調和のとれた作品に恵まれており、およそさまざまな点からいって、恋焦がれし18世紀にも似ているというようにだ。確かに以前と比べて、景気好況の時代や静かな植民地化の時代などのころよりも、かくも大胆な発展や英雄的な試みに富んでいる。
 だが私の思うに、今の時代は二重の過ちを内部に抱え込んでいる。第1の過ちは、芸術作品に古典らしさという価値やあかしを刻み込むためには神格化された伝統的な定型へ戻ればこと足りる、と考えられていることにある。とんでもない、真の芸術作品は自由な状態から生まれるのであって、束縛された状態からは生まれない。アルフレード・カゼッラはある日、われわれがこのことについて話し合っていると、次のような思慮あることばを私に述べた。「古典は生まれるものだ。時を経て成るものではない。」仮に、個人の音楽的直観による完全かつ決定的な表現をわれわれが古典と呼ぶのだとしよう。とすれば、ドビュッシー《前奏曲集》のいくつかは、たとえこのうえなく反古典主義的だと思われたろうあの印象主義の雰囲気のなかで生まれたとはいえ、(近代音楽の領域のみに限れば)この観点から、われわれにとって古典と見なされるだろう。またオネゲル、ピッツェッティ、ブロッホによるいくつかの作品も、本質的には典型的にロマン主義的な才能から生まれた表現であるとはいえ、結果的には古典ということになるだろう。(ちょうど最近、シエナ音楽祭でブロッホ《四重奏曲》を聴いた折、他の同時代音楽と比べたうえで、われわれはみな等しくそういう印象を抱いたのだった。)またマリオ・ラブローカは正当にも次のように主張している。つまり、ストラヴィンスキーが《ペトルーシュカ》や《結婚》といった見事な作品を激しい革命的な身振りをもって生み出したとき、彼はすでに古典作曲家であったというのだ。またその一方で、バッハの教えに導かれ〔て書かれ〕た《協奏曲》や《ピアノ・ソナタ》は決して古典になりえないだろうとしている。さらに《オイディプス王》や《ミューズを率いるアポロ》も古典となるか疑わしいといい、これらのうち前者はヘンデルのオラトリオとグリンカのオペラ観とのはざまにあって、後者はリュリとドリーブの洗練性のあいだで揺れているとされる。それらは、たとえ荒っぽい天才と熟達した手腕のしるしを伴っているとしても、純然たる創造というよりはむしろ妥協の産物だということである。
 第2の過ちは、私の考えでは、18世紀への回帰とロマン主義の嫌悪が極端で行き過ぎた結果をもたらすことにある。なぜなら、たとえヴァーグナーの遺産がシェーンベルクという淀んだ溜池へ流れ込んでしまったためそこから逃げるのは当然であるとしても――ソナタや四重奏曲や協奏曲といったものを作曲しようとして、明快で簡潔ではあるが質素でときには胚胎期の〔=未成熟な状態の〕ものである形式を掴み取るために、世紀をひとつ跳び越えて18世紀をやり直すのは、〔シェーンベルクにいたる流れと〕同じくらい理に適わないからだ。ソナタや交響曲の形式が放棄されたり、まったく自由で今日のように予測し得ない展開をもつようになったりすることは、将来起こりうる。だがわれわれが巨匠のやり方でそれらを作り直したり作り続けたりしようと欲する限り、その形式を成熟させ完成させた〔19〕世紀を、われわれは忘れられないだろう。しばしば私はこう自問するのだ。18世紀風に書いている今日の若者たちの多くは、ベートーヴェンやシューベルト、シューマンやブラームスたちについて、生誕100周年や記念祭典以外のことで、本当にきちんと理解しているのだろうか、と。
 ここまでの議論から、新古典主義といわれるものはいまや短命を喜んでいることになるのにちがいない。このあとには新ロマン主義でも生じるのだろうか? すでに明らかに見えている兆しからそうも考えられるが、おそらく、少なくとも全体的にはそれほどよくはならないだろう。きっと、平凡極まりなく独創性に欠ける音楽があふれ、メンデルスゾーンやチャイコフスキーやグノーといった19世紀のマイナーな作曲家たちが脚光を浴びることになってしまうだろうから。
 私は安易な批評も安易な予言も断固としてしたくはない。将来の音楽の行き先を左右しうるのはどんな要素だろうか、それを予想するのは難しい。ジャズはどうか。よくわからない。ジャズや黒人の歌において、アメリカは大衆音楽の風変わりなひとつの実例をわれわれに見せてくれた。だがそれらは真の芸術作品へ入りこみ成長するほど成熟してはいないように思われる。またたとえ表面上のことにせよ、ヨーロッパ音楽におけるジャズの影響は乏しい。たとえ万が一、ストラヴィンスキーによるいくつかの作品のなかに、たとえば《春の祭典》における自由な音価と音色による儀式のように、文化的に似たようなものが見出しうるとしてもだ。「四分音」ないしそういった他の分割法はどうか? 最近のシエナ音楽祭で発表されたことからは何もわからない。少なくともかかる方法の推進者であるアロイス・ハバの行った例を聴いた限りでは、それらは新しい創造の兆しというよりはむしろ古い音楽の変形のように思われる。なんであれ、下手な実験は未来の可能性にまったく傷をつけない、と言い添えておかねばならない。音波の共振にもとづくテルミンやマルトノによる最近の実験にしたがって、正弦波による音楽はどうか? これはわれわれの音楽観をひっくり返し、意外な可能性と予期しない地平線をあばいてくれるような発見となるのだろうか? いったい誰が知ろう。
 われわれの芸術はこれからも困難な進歩と絶え間ない闘争をしながら大河のように堂々と流れ続けるだろう。天才たちによって清められた芸術は新しい姿で形作られるだろうが、使い古された流行や時代がかったありさまへの安易な信頼感によりかかることはないだろう。おそらくそうに違いないし、またきっとそれが望ましい。



訳者による後注 
*1 ダンヌンツィオがドビュッシーをこう呼んでいたことを、この箇所は受けている。
*2 のちのヴェネツィア国際現代音楽祭(1930-)の前身か。
*3 パルティータという語は、音楽学においてはバロック時代に多くつくられた変奏曲ないし組曲形式による楽曲を指すが、他には一般に試合・ゲーム・勝負なども意味する。この箇所にはそちらもかかっている。前の文にみられるフランス語のはやしことばといい、このあたりの調子にはやや皮肉がきいている。