shadowrun
刺されていた。
京浜東北線の高架橋の下、オレンジ色の電灯に仄暗く照らされた長い道をたどっていく。コンクリート壁に右手を這わせ、傷口が開かないように、ゆっくりと。この壁に「また会おう」と書いて、読み終えた本を閉じるようにすべてを終わらせることが出来たら……などと、痛みを紛らわせるために。体じゅう
の筋肉がひきつったように動きづらい。
前方に男が立っていた。
俺はこの場面の読者になりたい。そう思った。(あの男だろうか、それとも別の? 民間人? 左手に持っているのは何だろう。目が少しかすむので見えづらい。上着に染み始めた暗赤色のひろがりを俺は隠し通せるだろうか。いずれにせよこのままではいい方に転ばないことは確かだ。)と、読者なら文脈から立ち上る様々な想像をめぐらせながら続きを読むことができる。ひととき痛みに共感しても、すぐに読むのをやめて料理をつくり、家族とあたたかい夕食の時間をすごすことができる。だが文章のなかにいる俺は、考えるよりも先に動かなければならない。ただ黙ってやりすごすか。だがそれができる相手だろうか。左手に持っているのは何だろう。目が少しかすむので見えづらい。
書き手の前にはいつも読み手が立っている。男は俺のことを読み続けているはずだ、俺が相手の背格好を顔つきを服装の嗜好を左手の何かを右手が鳴らし続けている奇妙な音をすべて捉え相手の意思とこれからの出方をできるかぎり精巧に思い描こうとするのと同じように。だがその一文字ずつに拘泥していてはいけない、即断して次の文章へと飛び移らなければ、相手に先を書かれてしまう。この冷たいコンクリートと同じ温度のナイフが俺の腹部をえぐるかも知れない。俺はそうなる前に対処の仕方を考えなければならない。だがどうやって? 右手を這わせながら、肩を壁について体重を支えようとしているこの俺が、どうやってこの続きを、うまい切り抜け方を書きつけることができるのだ。
男は自分の右手が鳴らす奇妙な音をいたく気に入っているのか、もうずっと止めない。俺はいつからここに立っていたのかわからなくなった。リズムがあるようでないようなそのズレた音群に俺の時間の感覚はばらばらにされたようだった。向こうからヘッドライトが現れ、それが奴の影を急にこちら側へ引き伸ばした。ライトの動きに合わせて位置を姿を変える輪郭線がすこしずつゆるみ遠ざかり消えていった。あとには強い光が網膜に焼きついた。車が一台通り過ぎたのだと気づいた。排ガスが俺の脳にまで充満しているようだった。
頭上からあたり一帯を揺るがす轟音が響いた。電車が通り過ぎているのだ。そのとき男が口を開いた。唇の周りの筋肉を絞っていろいろなかたちに動かしているようにしか見えないが、声を出していたとしてもこちらには聞き取れない。読唇術に慣れていない俺にはどんなふうにも読めた、つまり、「こっちにくるな」とも、「あっちへいくな」とも、あるいはその他の言葉。スローモーションの唇、影になって染みわたる無声音、網膜に焼きつく光。気がつくと車はもう一台通り過ぎていた。街灯の下を横切ると、影はだんだん背を伸ばしていく、遠ざかれば遠ざかるほど。俺は歩き疲れていた、「こっちにくるな」でも「あっちへいくな」でも俺にとってはどちらでもよかった。唇はまだ動いている。電車が完全に通り過ぎる。唇は徐々に声を取り戻す、だがそれは俺の知らない国の言葉のように思える。相手に向かって話していたのはいつの間にか俺だったのだが、唇を動かしているのは向こうの奴だ。お前、この俺の唇を読んでいるお前は、いったい何を話そうとしているのか。脳がはちきれて、たまっていた排ガスが口や鼻に流れ出した。
俺はライトをかざした。お前の唇をよく見えるようにするためだ。お前の影が向こう側に伸びていき、また位置を変え姿を変え輪郭線がすこしずつゆるみながら消え去った。車が一台通り過ぎたのか、俺のライトの電池が切れてしまったのかわからなかった。壁にあてた右手をすこしずらすと、また轟音が聞こ
え始めた。お前はまだ唇を動かしている。その筋肉の動きを読んでいるお前がいる。俺はまだ話し続けている。
刺されている。もうずっと、長い間刺されている。金属が俺の肉に滑り込む瞬間、俺はホモセクシュアルの気持ちがわかった気がした。ゆっくりと、生温かいもののなかへ硬く締まったその身が食い込んでゆく、それを俺は受け入れたのだ。刺されている。そのまま抜かれてしまわないように、俺の体の一部になってしまったそれをひったくってここまで歩いてきた。問題はそれをいつ抜くのかということだ。俺はまだ話せていられるだろうか。お前の左手からもぎとったそれを俺のものにしたまま、しかしお前の左手はいったい誰の何をにぎりしめていたのか。
影がゆっくりと前方に向かって伸びてゆく。俺は街灯の下を通り過ぎた。やがて影が縮み、俺の足へ足へまとわりつき、また俺から離れていく。車が一台通り過ぎたのを知った。車の行き先は知らない。
そういうフィルムを見ているかのように、カタカタと音はなり続けていた。男が鳴らしていたのは映写機の音だった。映画が終わり、お前は席を立ち上がる。本を閉じ、公園のベンチを立ち上がる。そのときも俺はずっと刺され続けているのだが、お前はどこかへ歩いていく。コンクリートの壁に右手を添えながら、ゆっくりと高架橋の下を通り過ぎようとする。そこで男と出会う。お前の読み手だ。その脇を車がまた一台通り過ぎる。車の行き先はわからない。
「こいつに乗れよ」男の唇がそう言っているのだと気づいたときには、俺の血はずいぶん流れだしていた。シートを汚すことになる、そう言って遠慮したが、お前は俺を後部座席に無理に押し込めて車を出した。息を押し殺した「行き先は?」俺が訊くと、お前はまた唇を動かす。それはお前の国の言葉ではないように俺には思える。お前の国の言葉はどこへいったのか。いや、もしかするとお前はそこへ俺を連れて行こうとしているのか。脇を車が一台通り過ぎた。行き先はわからない。手渡されたロードマップは入り組んでいて俺にはわからなかった。だが請け負った仕事は完全に遂行しなければならない。後部座席の汚れを気にしながら、体を遠くへ遠くへと運んでいった。
突然立ち上がるものがある。さっきまで目を通していた本を閉じながら、あわてて出て行く。そこは電車のなかだ。さっき高架橋の上を通り過ぎた。お前は刺されているのを気にしつつ、体を遠くへ遠くへ運んでいった。行き先はわからない。
足元の影がゆっくりと伸びている。夕暮れ時なのだ。そういえばこの冷たいコンクリート壁のオレンジの色づき具合も、あの遠い夕日に照らされているからなのだろう。お前に突き立てたそれを、俺はゆっくりと引き抜く。いとおしそうにお前の目が潤んでいる。車が一台通り過ぎる。やがて影は深い闇に包まれた風景に溶け込んでしまう。いよいよ目がかすんできた。俺はまだ唇を動かしている。その行き先は、わからない。