A Day Dream of Jampin' Jack
この気恥ずかしさをなんとかしたいと思った。
あんたみたいなやつがうたわないから、あたしがうたってる。アイリーンはそう言った。でも、あんたがいまさらうたいだしたって、あたしは静かにしてやんないからね。
あたしはかつてとてもきれいな声をしていたと聞かされた。けれどあるときひどい風邪をひいて、それが治るとからからになっていた。それでもポリープをとればきっと良くなるってお母さんは何度も言った。お兄ちゃんはあんなにうたが上手なんだからって。
でもそれはうそだと思う。たとえ声がきれいになったところで、あたしは音痴だ。お兄ちゃんはよく言う。お前は思い込んでるだけだ、何でも練習だ。お兄ちゃんは音楽だけしかひとに認められなかったからがんばってきたって言う。っていうより、音楽やってるひとをとくに尊敬してたから、彼らに認められたいと思ってがんばってたって。必要があったらひとはどんなことでも一生懸命になれるし、うまくなっていけるって。たぶんほんとうだと思う。そしてあたしにはその必要がない。
あたしがうたいだすことはない。だからアイリーンを見て、怖がらなくてもいいのにと思った。でもアイリーンはテレビのなかにいて、あたしは現実という物語の登場人物だからアイリーンと関わることはないので、アイリーンがあたしを怖がるはずはなくて、あれはアイリーンの弟に言ってるだけだ。まだテレビ画面は弟の視点のままで、アイリーンをじっと見つめている。何よ。アイリーンは少しひるんでそう言った。あんたは思い込んでるだけ。アイリーンはお兄ちゃんと同じことを言う。視点が切り替わって、アイリーンから見た弟が映る。やさしそうな弟は、きっと姉を傷つけまいとしてことばを探している。アイリーンが怖がっているのは、きっとそうでなければいけなくて、もしも怖がらなくなってしまったら、お姉ちゃんのうたはだめになってしまうかも知れないと弟は思っている。きっとそう思っている。弟は視線をうつむける。ここでカメラがまた切り替わって、映し出されるのはだまって立っている姉と座っている弟。そして奥の扉が開く。
なに、またこれ見てるの。智子が入ってくる。あたしは静かにうなづく。りっちゃんも好きだねえ、私はこれ、なんか、気恥ずかしくって。日本人てほら、こんなに、しゃべんないでしょ。はいこれりっちゃんの。智子は二人分のカップをテーブルに置きながらそう言う。ありがと。あたしは画面から目を逸らさない。アイリーンは言う。ジャック、あんた何か言ったらどうなの。そうだね、でも気恥ずかしいから、家で見ちゃうんじゃないかな。あたしはそう答える。気恥ずかしくないのは、家で見なくたって済むじゃん? ジャックは黙っている。智子はコーヒーに口づける。あっちち、家っつうか寮なんだけどさ、でもりっちゃんちょっと毒されてるね。アイリーンは言う。まあいいわ。
出て行く後姿。切り返しショット。怖がらなくたっていいのに。そう言わなくて済んだことで、ジャックはすこしほっとしている。きっと、ほっとしている。智子はすこし飲んでふうっと息をつく。もうひとがんばりだわ。あたしは画面から目を逸らさない。ジャックの静かに諦めたような横顔。その横顔に透明な紙をあてて輪郭をなぞりたいと思う。智子はつづける。明日までに間に合いそう。りっちゃんもう出したんでしょ。さすがだよね。あたしはうなづく。ジャックは遠くを見る。そのまま目を逸らさない。智子は思い出したように尋ねる。りっちゃん、あさってさあ、私の彼氏来るの覚えてる? あたしはうなづく。画面が切り替わって、ジャックの視点になる。窓の外には田園風景がひろがっている。あたしは目を逸らさない。だいじょうぶ、ちゃんと時間までに出かけるから。あたしは目を逸らさずにそう言う。よかった、お願いね。智子は席を立つ。だからね、怖がらなくてもいいんだよ。え? 何か言った? 智子は冷蔵庫からチョコレートの袋を取り出したところで、画面のこちら側にいるあたしのほうを振り向く。