典拠:Pizzetti, Ildebrando. La lirica vocale da camera. 《Il Marzocco》, XIX, 1, 15 marzo 1914, p.3; quindi in Id. Intermezzi Critici. Firenze: Vallecchi, [1921], pp. 163-172.
訳者名:原口昇平(連絡先
最終更新日:2011年12月30日  ※引用の際には典拠、訳者名、URL、最終更新日を必ず明記
 
室内声楽曲    イルデブランド・ピッツェッティ
 
  私が勘違いしているのでなければ、わが国の声楽曲に関しても新しい時代が始まっている。つい数年前までここわが国では、室内声楽曲はくだらないとまではいかないが――芸術としてはより下位のジャンルであると見なされていた。事実、それまでわが国の偉大な音楽家たち、オペラ作曲家たちは、そのジャンルに没頭するに値するとは考えず、あるいは時折取り組もうともせずに、そのジャンルをもっぱらトスティ、デンツァ、ロートリ、ティリンデッリらに任せっぱなしにしていたのだ。きっと、わが国のオペラ作曲家たちが――すなわち、19世紀後半のメロドラマの作曲家たちから10〜15年前〔世紀の変わり目ごろ〕のイタリアの「新派 la giovine scuola 」までが――室内声楽曲を書かなかったのは、次のことを理解ばかりか想像さえしなかったからなのではないか? かの芸術ジャンルにおいても、きわめて美しいうえにある面では劇音楽にも劣らぬほど意義深い作品を、ひとは創造し得る、ということをだ。よしんばそのことを彼らが理解していたとしても、十分なものをつくることが難しいだとか、挑戦することがそもそも危険に満ちているとか感じていたのではないか? おっと、いやはや、失敬なやつと思われないようにこの最後の仮説を捨ててしまうことにしよう。
 ともかく今や私にはこう思われるのだ。いくつかの最新の実作例を見た限り、リーリカ lirica に関しては、イタリアにおいても、新たな時代がまさに始まりかけているようだ。そしてその時代はきっと豊かな繁栄を迎えるはずだろう、そう私は信じる。しかし、だからといって私は次のようなことを言いたいのではないし、言えもしない。つまり、私の知るそれら新たな実作例がたいへん大きな価値を持っている、とか、まして、そうした実作例が将来のリーリカの開花をわれわれに予見させるに足るものであって、その精髄は17世紀や18世紀前半の見事な作品との比較に耐えられるほどになるだろう、などと言いたいわけではないのだ。むしろ私が言いたいのはこういうことだ。今から10〜50年ほど前のロマンザ romanza の作曲家たちは、自分たちの音楽を作曲するにあたって、見つけられる限りもっともいい加減で愚かなもののなかから選ばれたと思われる詩にもとづいていた(いや、そうした詩は本当の意味で選ばれていたのではなく、むしろ受動的に受け入れられていたのだ、なぜならそれを受け入れた者はより美しく深遠にして有意義なものへの欲求を感じていなかったからだ)けれども、今日わが国の若い音楽家たちは、総じて、真の詩人たちによる真の詩に取り組み、ただそれのみによって着想を得ようとしているのだ。また、10〜50年前のロマンザの作曲家たちは、より大きな構造を持った作品(器楽や劇音楽)を書く能力を自分が持っていないと自ら感じていたがゆえに、ほとんどロマンザのみを書いていたのである。というのも、ロマンザを書くためには詩節に即した完璧に規則的な旋律のもとにことばを収めるすべを知っていさえすれば足りていたからである。その規則的なものはありきたりの常套句となったいくらかのカデンツから容易につくりだされ得るものであって、聞きかじりのアマチュアを含むあらゆる音楽家たちはそんなカデンツをピアノもしくはギターで弾くすべを十分よく知っているのだ(そのカデンツに乗せて何度も歌うと、次第に着想が温まってきて、ついには美しく完成した旋律が生まれるわけだ)。だがいまや、リーリカを書いている者たちのなかには、わが国の若い音楽家たちのなかでも最良の、もっとも勤勉でもっとも前途有望な作曲家たちもいるのだ。そんな彼らは次のことについて十分な理解をはっきり示している。すなわち、詩人がオードを少ない行数で書いたとしても傑作を十二分に創造しうること(われわれと同時代の詩人であるカルドゥッチ、パスコリ、ダンヌンツィオについて論じることで十分証明されてきたこと)と同様に、音楽家もまた歌とピアノのための音楽を二、三ページで書いたとしても傑作を創造しうるということだ。(シューマンによるきわめて短くきわめて深遠ないくつかの作品や、ムソルグスキーによる《子供部屋 Enfantines 》を想起されたい。)
 けれどもリーリカに属する(イタリア内外の)最近の探求は、いかなるものと見なされ得るだろうか、一体それは何であろうか? (この問いは純真かつ無益で、ことによると不条理なものに見えるかも知れないが、実はそんなことはない。)
 それは「アリア aria 」ではない。今から二、三世紀前にこのことばの負っていた意味にそぐわないからだ。民衆的なタイプの「カンツォーネ canzone 」でもなく、「ロマンザ」でもなく、ドイツにおける「リート lied 」でもない。
 それらは、上記の諸形式にあるような節構造を有していない。また必然的に、多かれ少なかれ規則的な有節形式で表現される種類の特殊な叙情を、内容として持っていない。
 それには次の理由がある。留意されたいのだが、かつての歌曲においては、それぞれの楽節形式はそれぞれの内容にもとづいて決定されてきていた。すなわち、フランスやイタリア、スペインやロシアなどなどの民謡 le canzoni popolari(ならびにトルバドゥールのカンソのうちある種の劇的歌謡 chansons drammatiques を除く大部分)も、また16・17世紀のアリアやシューマン以前のドイツ・リート(ならびにシューマンとブラームスによるリートの大部分)も、そして、19世紀イタリアのロマンザやフォーレ以前のフランス・メロディー melodies (ならびにフォーレによるメロディーのうち多数)のことである。というのも、それらは、芸術家の注意が所定の対象のうえにとどまることによって喚起された叙情の衝動を表現するものとして、生まれたものだからだ。芸術家が(唯一かつ偏愛される外見をとった)特定の対象に注目し、それによって必然的に芸術家の精神のなかに感動が生じてきたのならば、その感動は、論理的にいってみれば、それ自体で完成した有節形式によって表現されなければならなかった。なぜ論理的にそう言えるのかといえば、節構造を持たない表現すなわち散文的表現は、絶えず移ろい二度と同じ様相を繰り返さないひとつの生命の生成変化を表現するのではない場合、存在理由を持たないはずだからだ。そうした表現は、むしろ、いかなる慣例や連続からも独立して存在する単独なる生の、つかのまの直観を表現することに関わる。
 近代の室内声楽は、ドイツにおいてフーゴー・ヴォルフとともに、もはや厳密な節をもたなくなりはじめ(とはいえ〔リヒャルト・〕シュトラウスは自らのリーリカの大部分に節を与えているものの)、フランスにおいてドビュッシーとともに、疑いの余地なく散文的になっている。
 リーリカの作曲におけるこの新しい方向は、有節形式では表現されえなかったある種の直観を表現したいという要求こそによって決定づけられてきた。そのことは疑いようがない。しかし、どんなものによって、正確にはいかなる美学的要請によって、近代の音楽家たちは以前の有節歌曲形式を棄てなければならなかったのか?
 これまでに度々言われ書かれてきたとおり、過去のリーリカにおける音楽は詩のテクストの全体的かつ根本的な情感を表現していたのだが、そのような過去のリーリカと異なって、歌とピアノのために書かれた近代の音楽は(この議論では言及しないが歌と管弦楽のためのものも同様に)、詩のことば一語一語によって移ろいよく表されたかあるいは単にほのめかされたかした多様な感覚を表現することを欲し、また試みるのだ。すなわち、いくらかの人々の示唆するように、また多くの者によって受け入れられているように、詩のテクストに音楽の注釈をつけたものとして定義される。
 ドビュッシーおよびラヴェルなど、フランス、スペイン、ロシア、ドイツにおける同時代の最も先進的な音楽家たちによる歌とピアノのための音楽を吟味すれば、次のことがわかる。すなわち、実際のところそれらは、総合的な表現としてではなく、むしろ細部に凝ってつくられた表現として、ほとんど詩の分析にもひとしいものとして生まれたのであり、また、それらが詩の展開を一節ごと一語ごとに追っていくことでそれらの形式が展開しては定まっていくのだ。そこでは、ひとつの主題の萌芽する力にしたがって発展しリズムを刻むような長大な楽節が存在せず、諸動機や諸和声の断裂が連なり、また度重なる転調や多様なリズムがあらわれる。音楽家は、周知の通り、詩のテクストの各語の意味や意義を表現することを真に理解し試みてきたのであり、またその音楽家の作曲した音楽は万物の世界を喚起し暗示するものに真に満ちているのであり、その世界はきわめて洗練された感性を持つ人間であるところのその音楽家によって鋭敏に強く印象として感受されたものなのだ。
 だが今一度考察し注意したいことがある。それは、近代の作曲家たちによる歌とピアノのための音楽のほとんどすべてにおいて、最新の器楽の表現が並外れて豊かであるのに対して、声楽パートにおいては表情に富んだアクセントを大いに欠いていることだ。しばしばこう言われるかも知れない、つまりアリアドネーの糸の代わりとして案内役を務めねばならないはずの器楽パートを聴衆に誤って解釈させて戸惑わせないようにするためだけに、数々のことばがそこに置かれたかのようだ、と。そしてまたこうも言われるかも知れない、そうしたことばに乗せられた音は、表現の必要によって生み出されたのではなく、むしろ各和音を構成する四つか五つの音のなかで器楽パートの書法上の制約によって音楽家に課せられたものであって、真の深遠なる情感を表現しようという配慮からはまるでかけ離れていて、果ては音響効果の配慮とすらも無関係である、と。つまり、もっとも近代的な作曲家たちによる歌とピアノのための音楽は、詩のテクストの一語一語の意味する感覚の諸対象を喚起し表現することに関しては、過去のものよりもずっと大きな潜在力を持っている。しかし、それらは、かつて詩人の感受したところのものごとの世界を語り、暗示し、可能な限り表現しうるほど力強いものであるけれども、それでも人間の本質に関わる真の深遠なる感覚の表現をわれわれにもたらしえない。それらの持ち、もたらす内容は、鋭敏かつ洗練された印象に格別富んでいるが、他方、深奥の感情の生気を格別欠いている。その深奥の感情の生気は、もしもそれがほんとうに存在していたら、(歌とピアノのために作曲された音楽のなかで)歌によって、ことばの音楽的抑揚によって表現されずにいられないはずのものである、というわけだ。
 確かに、あるいくらかの年代のわが国や諸外国のロマンザ(ロマンザやメロディーやリート)のなかでは、郷愁めいてしばしばすすり泣きにも似た(無力なる)いくらかの感傷的傾向が辛うじて表現されていた。それと比べると、もっとも近代的な作曲家たちによる歌とピアノのための音楽は、私の示してきたように、きわめて洗練されきわめて激しい官能的印象を内容にもつという点で、確かに、はるかにもっと優れている。しかも、その内容はわれわれの精神を満ち足りさせるものではないか? というのも、われわれの精神が、生の単なる表層を表現したものではなく、熱情をもって生きられる真の生の養分(未知なるものの顕現)を芸術に要求するからである。
 歌とピアノのための音楽の近代的作曲家たちは、自らの楽曲を、もはやロマンザともメロディアともカンツォーネともアリアとも呼ばない。彼らはそれらをリーリカと呼ぶのだ。どのような根拠を持っているのだろうか?
 こういうことだ。それがある意味でリーリカであろうということは、異議を差し挟みようがない。というのも、精神の(歌の)音楽的条件によって生まれたのでなければ美の表現は生じえないということがひとに認められており、また同時に認められなければならないからだ。いや、われわれは、ただあの美の表現のみをリーリカと呼ぼうではないか。かの表現というのは、魂の焼けつくような真の高揚によって生み出されたとわれわれには思われるものであり、われわれを熱狂に燃え上がらせるほどの潜在能力を持つもののことだ。この仮定に立って私は言いたい。同時代の音楽家たちによる室内声楽作品はただある点にいたったものはリーリカと呼べるが、しばしばまったくそうなっていない。
 またこのために私は自問するのだ。室内声楽作品において、カンツォーネや、アリアや、ロマンザの諸形式がそのままにされてきたこと、もしくはそのままにしようと欲されてきたことは、実際のところ悪いことではないのだろうか。私の考えにしたがって自答するならば、然り、悪いことだと言いたい。私のいっそう確信を深めてきたところによれば、有節形式は、劇的な力とは無関係であり、むしろそれは反-劇的なのであって、なぜならそれは何度も述べてきたように感情の営みの静止した瞬間を表現するものだからだ。むしろ室内楽の領域においてこそリーリカの諸形式は、強い表現力を持ち、いっそう生き生きとした、いっそう美しいものになる可能性を持っているように私は感じている。

(1914年3月)