典拠:Pizzetti, Ildebrando. "Musicisti futuristi?" Nella Nuova Musica, a. XVI n. 204-205 Firenze 5-20 Gennaio 1911: 3-4.
訳者名:原口昇平(連絡先)
最終更新日:2014年9月9日 ※引用の際には典拠、訳者名、URL、最終更新日を必ず明記
未来派音楽家? イルデブランド・ピッツェッティ
未来派グループが新部門を創設した。音楽部門である。
安心しよう。これまで、諸芸術のうち、存続に何の心配もいらないものは、詩と絵画のふたつだけだった。今日、ひとは音楽の将来についても安心してよい。これから、彫刻と建築の番がやってくるだろう。
未来派音楽家は今のところごくわずかしかいないが、(皮肉なことにミラノ上院通 via Senato にある)未来派本部の場所と日付の入った宣言文に署名している唯一の男は、美しい戦士の名前を持っている。バリッラだ。彼はとうに一廉の人物になっている。彼もまたまれに暴力的な言葉遣いを用いる。これもいっぱしのものだ。
だが署名した指導者の勇ましい名前や暴力的な言葉遣いの他に、未来派音楽家宣言の中には何があるのだろうか? 何か新しい理念、あるいは少なくとも何かよい理念があるだろうか?
宣言文の序言にはかまわないでおこう。そのなかで、バリッラ・プラテッラは万事こんな調子で書いている。「あたりには古い生まれの者、よだれだらけの過去の亡霊、腫れあがった毒々しい隠花植物がいる。やつらに与える言葉や理念などない、代わりにただこう命じる。果てろ。」 また、彼がご親切にも知らせているところによれば、一年前、彼の劇場作品は、ボローニャで、未来派ではない音楽家たちで構成される委員会から、賞を受けたという。
あの批判的総括にもかまわないでおこう。そこでプラテッラは、ヨーロッパのきわめて近代的な音楽制作についても私たちに批判を投げかけようとした。その批判のなかで彼は正しいことを言っているのだが、それは彼以前に他の者が言ってきたことだった(例えばリヒャルト・シュトラウスの芸術は深遠な内容を欠いているという指摘だ)。そして彼はきわめて誤ったことを述べている(例えばあの誠実なエドワード・エルガーがイギリス音楽の革新者であるという誤謬だ)。そして何も意味しない言葉をも述べている(ギュスターヴ・シャルパンティエはクロード・ドビュッシーよりも理想の面では強く、音楽的には下位にいるという表現だ)。覆されうるうえにまったく価値を持たない評価である。
最終的に、プラテッラがイタリア音楽のなかでもとくに劇音楽の状況について書いていることすべてと、彼が各出版社に対して投げかけている罵詈雑言(きわめて正当だが完全に無効である罵詈雑言)すべてを、横に置いておこう。
そして残るのはほかでもない宣言文の「決定的」結論である。
未来派音楽家たちの掟は11ヶ条ある。神の10戒よりかろうじて1つ多い。
第1条はこうだ。「音楽高校や音楽院、音楽の学会を見限るよう、また自由な研究を再生の唯一の手段として認識するよう、若い作曲家たちを説得すること。」
ひとりの音楽家によって書かれたとは思われない言葉だ。音楽家であればむしろ音楽高校や音楽院が存在するのは演奏家たち(器楽奏者たち)を育成するためであり――その種の専門家はひとりでは自己形成しようがないからであり――また作曲家たちにもっぱら表現手段の知識を提供するためである。
自由な研究、つまり師なしで研鑽するのはどうか? 素晴らしいことだ、ぜひやるべきだ。だが師につかずに研究するためには、前もって師について学んでおく必要がある。
プラテッラはひょっとすると、無能かつ不適格な教師がわが国の音楽教育機関のなかにあまりにもたくさんいすぎるということを言いたかったのではないか? 〔だとすれば〕私は賛成だ。しかしそのことは音楽高校や音楽院そのものが役に立たないということを少しも意味しない。
第2条はこうだ。「致命的なほど金で動くうえに無知である批評家連中を頑として侮蔑しながら彼らと闘うこと、また彼らの記事による有害な影響から聴衆を解放すること。この目的のために、音楽院の教授たちや堕落した聴衆の審美眼に決然と反対する独立した音楽雑誌を創設すること。」
ここで未来派は自ら墓穴を掘っていることを自覚していない。だがそれにしても、一定不変のものでないのだから先験的に善悪を判断されない基準に対して、ひとはいったいどうすれば決然と反対することができるのだろう?
第3条はこうだ。「選考手数料を同封して何らかのコンクールに応募するのをやめ、詐欺を拒絶し、概してまぬけともうろくから構成される審査委員会の無能ぶりを白日のもとにさらすこと。」
では、ボローニャでバリッラ・プラテッラの作品に賞を与えたあの音楽家たちはまぬけともうろくなのだ、と私たちは考えなければならないのだろうか。
第4条はこうだ。「商業的ないしは学術的な環境から離れ、それらを侮蔑し、ひとが芸術を売り渡しかねない豊富な報酬よりもむしろ謙虚な生活を好むこと。」
尊い決意だ、明瞭かつ率直な表現だ! かつて、モーツァルトからベルリオーズまで、あるいはその他のひとびとまで、あらゆる時代、あらゆる国の偉大な芸術家たちはほとんどみなこのように考え、このように行動した。しかし、おお、私が挙げたのは、はるか昔に死んだ音楽家たちの名前ばかりだ! それでは、無欲は、未来派だけのまったく新しい徳であるとはいえないのではないか。
第5条はこうだ。「自分の音楽的感性を過去のあらゆる模倣や影響から解放すること。未来を向いたこころで感じ、うたうこと。人間的な、あるいは超人間的なあらゆる現在の現象を通じて、自然からインスピレーションと美学を引き出すこと。近代的生活のさまざまな局面において、また自然との内奥に隠された無限の関係において、絶えず更新される人間という象徴を称賛すること。」
「未来を向いたこころで感じ、歌うこと」という一文はさておくとしよう。この部分は誤った考えを可笑しくもある仕方で表現してしまっている。というのは、こころは、もっぱら何らかの仕方でいま存在しているものを感じるのであって、これから存在するかもしれないものを感じることはできないからだ。しかし残りの部分は、よくも悪くも、きわめて正しい考えを表現している。活力のある生きた芸術を創造するためには、われわれのなかで、人間たちのなかで、また取り巻くものすべてのなかで生きているものを糧として生きなくてはならない。
しかし私が間違っていないとすれば、活力のある生きた芸術作品を――素晴らしい作品を――過去に創造した芸術家たちはみな、自分たちの内奥の生から、人間たちと彼らの取り巻くものの生から、自分たちの芸術精神をくみ取ってきていた。彼らが、耽美主義者の毒にもならない過ちによって、他の時代の生を物語りながらそれを刷新しつつ他の時代の芸術をよみがえらせることができると思い込んでいたときでさえもだ。
さてさて、それでは未来派の考え方のなかで新しいものはどこにあるのか?
第6条はこうだ。「美辞麗句にすぎず何の役にも立たない『良質の』音楽 la musica ben fattaという迷信を破壊すること。これまでにつくられてきた音楽とは絶対的に異なる未来派音楽の唯一の理念を示すこと。かようにしてイタリアにおいて未来派音楽の美的センスを育てること、また『古いものへ帰ろう』という憎々しく愚かで卑怯な文句を打ち出している教条主義的で学術的で退屈きわまる価値観を破壊すること。」
「古いものへ帰ろう」という文句はそれ自体では憎々しくもなく、愚かでもなく、卑怯でもない。しかし――ひとが誰も攻撃するつもりもなくそう言うのであれば――きわめて大多数のひとびとはそれに賛成するにせよ反対するにせよその意味をかつても今も理解しておらず、かつても今もまったく知的でない。
「未来派音楽の美的センスを育てること」という言葉についていえば、意味のない言葉であり物笑いの種である。同じように「これまでにつくられてきた音楽とは絶対的に異なる未来派音楽の唯一の理念を示すこと」というあの他の言葉もこっけいであり無意味だ。
第7条、第8条、第9条はこうだ。「歌手の王国は滅ぶべきであり、歌劇芸術における歌手の重要性は楽団の楽器ひとつの重要性にひとしいと公言すること。――定型詩の代わりに自由詩を用いつつ、『オペラ台本』という名称と意味を『音楽のための劇的詩篇または悲劇』という名称と意味に変更すること。――歴史を再現する作品や伝統的な舞台装置と断固として闘うこと。また同時代の衣装がこうむっている侮蔑について、愚かなものだと述べること。」
だがこれらのことは、1900年代の初頭にロマーニャの素材に基づき歌劇を書いたバリッラ・プラテッラとかいうひとがいかなる理念を持っていたのかということについて、長い歳月を経た後である日知りたくなってしまった人の興味なら引くかもしれない。
そのひとは、なんなら自著の2, 3頁を割いて、そのプラテッラがいかに伝統的な舞台装置というものを憎んでいるかということを説明することができる。
だが今のところ、プラテッラはまだ傑作の作曲家でも過去の音楽家でもなく、ただ未来派であるにすぎないのだから、韻律法に対する彼の反感について、または「同時代の衣装」に対する彼の共感について、注意を喚起したいというひとが誰かいるだろうか?
第10条はこうだ。「トスティやコスタなどによるロマンツァ、へどの出そうなナポリのカンツォーネ、宗教曲と闘うこと。宗教曲は信仰の衰退によりもう存在理由を持たないにも関わらず、音楽院の無能な院長や未熟な司祭によって排他的に独占されている」
どうしてトスティやコスタらのロマンツァと闘わなければならないのだろうか。彼らはバリッラ・プラテッラに何か悪事でも働いたのだろうか。彼はことによると、もっぱらトスティやコスタのロマンツァばかりを好むひとびとのなかに、自らの未来の音楽の熱狂的支持者がいるかもしれないと考えているのだろうか。
それに宗教音楽が存在理由を持たないとしても、またそれがもっぱら音楽院の無能な院長のみに占有されているのだとしても、どうして宗教音楽とひとは闘わなければならないのだろうか。バリッラ・プラテッラは、音楽院の院長から、宗教曲の独占権をとりあげてやりたいのだろうか。ならばそうさせておくがいいだろう。
ここまで未来派音楽家の11ヶ条のうち第10条までを検討してきた。さて、未来主義はどこにあるのか。すべては第11条のなかにあるのだろうか。見てみよう。「革新的な巨匠の出現を妨げる古い作品の再発掘に対し、いっそう増大する敵意を、大衆のなかに喚起すること。また音楽のなかの独創的または革命的と思われるものはすべて支持し、また賛美し、死にかかったやつらや日和見主義者どもの侮辱や皮肉から名誉を守ること。」
古い作品に対する敵意を大衆のなかに喚起すること――それは若い音楽家たちにとってなんといっそう簡単な出世方法ではないか。
出世。これこそがこの状況を理解するキー・ワードだ。未来派はなんとしても世に出んと欲するひとびとなのだ。
だとすれば、未来派を名乗ることは――誰ひとりとして攻撃したいわけではないが――出世主義者を名乗ることなのではないか。
しかしバリッラ・プラテッラは――未来派音楽家宣言に反して――ふつうではない知性を持った男であるはずだ(そしてきっとマリネッティ、ルチーニ、カヴァッキオーリらは未来派ではあるけれども天才ではないのではないか)。そのことを彼はきっと、音楽の中でだけでなく、まもなく出版予定と告知されている未来派音楽技術宣言の中でもまた、証明してくれるだろう。
その宣言をもって彼はようやく自らの音楽または「過去主義者たち」の音楽に関する技術宣言を私たちに提示するかもしれない。しかし彼は、未来派そのものに関しては、無害ではあるがむなしいこっけいな姿勢しか、私たちに示せないだろう。
(1911年1月)