典拠:Verdi, Giuseppe. Lettere. A cura di Eduardo Rescigno. Torino: Einaudi, 2012: 192-210.
訳者名:原口昇平(連絡先)
最終更新日:2015年 9月 7日 ※引用の際には典拠、訳者名、URL、最終更新日を必ず明記
1848年4月21日(金)ミラノ発ヴェネツィア行
フランチェスコ・マリア・ピアーヴェ宛
親愛なる友よ、
わかるだろう、パリにとどまるつもりだったところで、ミラノでの革命について聞いた。知らせを聞いてすぐに出発したが、私が見ることができたのはただこの見事なバリケードだけだ。この勇敢な人々を称えよ! 称えよイタリアを、イタリアはいまこのときこそ真に偉大だ! 時は来た、信じたまえ、いまこそ解放の時だ。人民が解放を欲するのだ。そして人民が欲すれば、抵抗できない絶対的な権力などありはしないのだ。
やつらはやりたいことを何でも思うがままに力づくでやれるかもしれないが、しかし人民の諸権利をだましとることはできない。確かに、まだ数年か数ヶ月はかかるかもしれないが、それでもイタリアはいずれ解放されるだろう。共和制になるのだ。どんなふうになるべきだろうか?
きみは音楽について私に語るのだね! きみは何を考えているのだ? きみは信じているのか、私がいまこのときに音や響きについてばかり考えているとでも? 1848年のイタリア人の耳に喜ばれる音楽は大砲の音楽だけだ、そうであるべきだ! 世界の富すべてをくれると言われても、私は1音も書くつもりはない。書いてしまえば、五線紙をむだにしたとずいぶん後悔するだろう。何かの包み紙にするにはもってこいだろうが。ピアーヴェ万歳、地元のために戦うすべてのヴェネツィア人万歳、みな互いに兄弟姉妹のように手を差し伸べあおう、そうすればイタリアはふたたび世界一の国になる!
きみは国の衛兵になったって? きみが単なる一兵卒になったことを私は喜んでいる。兵士とは素晴らしいじゃないか! あわれなピアーヴェ! 眠れているか? 食べているか? 私も役に立てたなら、他でもない兵士になりたかったが、あいにく今は〔後方の〕扇動者にしかなれない。それもひどい扇動者だ、弁舌といえば流暢ではなく、むしろつっかえがちなのだから。
仕事や雑務のためにフランスに戻らなければならない。想像してくれ、歌劇を二作もつくらなければならないうえに、ほうぼうに金を請求したり小切手や手形を金に換えたりしなければいけないのだ。
あちらに全部置いてきたのだが、私ひとりががまんできるからといってすべてをほったらかすわけにはいかない。いまの危機的状況では、私がいなければ一部のひとびとを救うことはできないのだ。それでもやはり、待望されていることが起きているから、おかげで私は落ち着かない。きみがいまの私の姿を見たら、私だとはまさか気づかないかもしれない。きみをこわがらせていたあのしかめっつらをもうしていないのだ! 歓喜に酔いしれているのだから! 想像してみたまえ、ドイツ人たちがいなくなったのだよ。もちろん私は彼らにある種の同情を寄せてもいたが。さようなら、さようなら、みんなによろしく。とくに、フォンタナにいるヴェントゥーリに。すぐに返事をくれ、私はそう早くないうちにではあるがそれでもいずれここから出発するからだ。もちろん帰ってくるとも! さようなら、さようなら、いつでも私に手紙をくれ。
1848年5月31日(水)コモ発ナポリ行
サルヴァドーレ・カンマラーノ宛
いと親愛なるカンマラーノ様
パリへ向けて発ちました。いまコモに立ち寄って、半刻ほどのあいだにあなたへ手紙を書いています。あなたが手紙で次回作の劇 *1 の一部を書き送ってくださるのを私はお待ちしておりました。けれどもきっとあなたの国ナポリで重大なできごと *2 が起きたため、あるいはナポリでその歌劇をつくることにためらいが生じたため、あなたはそれどころではなくなってしまったのでしょう。それならばなおのこと、ご自身の仕事をお続けになってそれを可能な限り速く仕上げておしまいになるよう、お勧めするとともにお願いいたします。なぜなら、ひとびとがその歌劇をナポリで上演したがらなかったとしても、またできないといったとしても、私はその台本を自分自身のためにとっておくことにいたしまして、リコルディ社があなたに正当かつ妥当だと納得していただける金額をお支払いすることになっているからです。ですから、最大限の熱意をもって仕事をお続けいただき、散文で書かれた筋立てと草稿の一部をできる限り早くパリの私のもとへお送りください。
1848年7月22日(土)パリ発ヴェネツィア行
フランチェスコ・マリア・ピアーヴェ宛
親愛なるピアーヴェ、
私がもう一月以上パリにいることをきみは知っているのだろうか。私はいつまでこの混沌のなかにいるのやらわからない。この最近の革命についてきみは聞いたことがあったか? なんという恐怖だろう、私の親愛なるピアーヴェよ! すべて終わるのを天が望まれますように! そしてイタリアはどうだ? あわれな国よ!! 私は新聞を読んではもう一度読みなおし、いつも何か喜ばしい知らせを探すのだが、なのに…… それにしてもきみはなぜ私に手紙をよこさない? 思うに、こんなときこそ、ひとは自らの友人たちを思うべきではないか??!!
この世界的な大混乱のまっただなかでは、私はもっぱら私事に頭を使っていたいとは思わない(音楽のことばかり考えることはもはやお笑い種ですらある)。ただきみたちのことを真剣に考えに考え抜かねばならない。で、私がきみに台本をつくってもらいたいと言ったら、きみはやってくれるか? 題材はイタリアについて、それから自由についてだ。よいものが思い浮かばないなら、私としてはフェッルッチョを提案する。偉大な人物であり、イタリアの自由のために殉じたひとびとのひとりだ。きみは〔ドメーニコ・〕グエラッツィによる『フィレンツェの包囲』から素晴らしい場面をいくつか着想するかもしれないが、私としては歴史に近づけたい *3 。私の思うに、主要な登場人物を次のように考えてもよいかもしれない。
フェッルッチョ
ロドヴィーコ・マルテッリ
マリーア・ベニテンディ
バンディーニ
これら4人を主要人物とすべきだろう。とはいえ副次的な人物についてはきみが付け加えてくれればよい。また主題はきわめて高尚かつ壮大にしてよい。裏切り者マラテスタやダンテ・ダ・カスティッツィを加えてもよい(前者はむしろ必要かもしれない)。プリオーリの、言い換えればフィレンツェの政治を司る少人数からなる行政府の場面を、私は扱いたい。また、クレメンス7世が表向きはそうとはわからないが打ちのめされるというのを描きたい。きみはどう思う? この題材がよいと思ったら筋立てをつくって私に送ってくれ。覚えておいてくれ、私は非常に流行した筋立てを愛しているが、それは私が自ら考察を行う必要があるからなのだ。いや、労作に評価を下す資格が私にあると信じているのではない。そうではなくて、私が劇をよく理解して確信を持たなければ、私はよい音楽をつくりようがないからなのだ。一本調子にならないように注意してくれ。言うまでもないが悲しい題材では、慎重にやらなければ単なるお葬式になってしまう。例を挙げれば、《二人のフォスカーリ》の調子もしくは色彩は、最初から最後まであまりにも均等すぎる。
さようなら! もっと愉快な時が来るように願おう。それにしてもフランスを一瞥してからイタリアに目を向けると恐ろしい気持ちになる……
しまいにはロシアだ。あの国はいまイスタンブールに向けて進撃している。ロシアにイスタンブールをみすみす征服させてしまえば、私たちは数年と経たないうちにここでコサック人になる。なんということだ!
さようなら
GV
1848年8月24日(木)パリ発ミラノ行
ジュゼッピーナ・アッピアー二宛
あなたの手紙を読んでたいへん嬉しく思いました。あなたがどうなさっているか気にかかっていたからです。あなたがお元気だと知って私は喜んでおります。
イタリアの状況に関するフランスの世論が気になるのですか? いやはや私に何を求めておられるのやら!! ぶつからない者は関心を持たない者です。もっと言えば、イタリア統一という理念を恐れているのは小者どもであって、権力の座についている人々ではありません。フランスが武力で介入することはまずありません、予測不可能な出来事が意に反してずるずると続かない限りは。英仏の外交的干渉は、不当以外のなんでもありませんから、私たちにとって災いになるだけでなくフランスにとっても恥になります。確かに、干渉が行われれば、オーストリアはロンバルディーア地方を放棄しつつヴェネト地方で満足するように迫られるかもしれません。では、オーストリアがロンバルディーア地方の放棄を迫られたとしましょう(そのあいだにオーストリアは何か企んでいて、ひょっとすると去りゆく前にすべて略奪するか放火するかもしれません)。しかし私たちに残されるのは、それ以上の汚辱です。つまりロンバルディーア地方の荒廃と、イタリアの一地方の君主なのです。いやいやいや、フランスにもイギリスにも期待しますまい。私が期待するとしたら、何に望みをかけると思いますか? オーストリアにですよ。帝国各地の混乱に望みをかけるのです。重大な事件が何かあちらで生じて、しかも私たちが時機を逸することなく戦うべき戦いを戦えば、つまり蜂起すれば、イタリアはあらためて解放されるでしょう。ですから、私たちは王族や諸外国を頼みにしてはいけないのです。
ここにはあちこちからイタリアの外交官たちがやってきます。昨日も〔ニッコロ・〕トンマゼーオが、そして今日はピッチョッティが来ました。彼らにはどうすることもできません。いまだにフランスに期待しているなどありえません。要するに、フランスは国民国家イタリアの誕生を欲していないのです。
これが私の見解です。あまり重く受け止めないでください。ご存じのように私は政治に関しては素人です。ともかく、フランスはいま這い上がりようのない奈落にはまりこんでいます。5月と6月の事件に関して激しい追及が行われましたが、これは世界で最も惨めな、吐き気のすることです。なんと不幸な、ちっぽけな時代なのでしょう! ちっぽけでないものなど何一つありません。犯罪ですら! 私の思うに、反革命がまもなく差し迫ってきています。至るところにその臭いがするのです。反革命はこの弱々しい共和政にとってとどめの一撃となるでしょう。何も起こらなければいいのですが、それを恐れるだけの十分な根拠が私にはあるのです。
カルカーノはすでにスイスへ向かいました。ひょっとするといずれあなたもお会いになるかもしれません。エマヌエーレの手紙によれば、彼はもうミラノにはいられないとのことです、ひょっとすると明日以降ここに着くかもしれません。
1848年10月18日(水)パリ発ルガーノ行
ジュゼッペ・マッツィーニ宛
親愛なるマッツィーニ殿、
讃歌をそちらへお送りいたします。たとえ少々遅れようとも間に合いますように願っております。できる限り人々に好まれるよう、演奏しやすいようにつくりました。お好きなようにお使いください、価値なしと思われれば譜面を焼き捨ててくださってもかまいません。出版なさる場合、第2詩節および第3詩節それぞれの開始行のうち数語を、詩人に変えてもらってください。5音節の文句がそれ自体で〔独立して〕意味を持つようにしたほうがよいでしょう。他の詩節ではそうなっています。 Noi lo giuriam(われら誓わん)、あるいは Suona la tomba (ラッパを鳴らせ)などです。それから、おわかりかと思いますが、最終行をズドゥルッチョロ詩行〔最後の音節から3番目の音節にアクセントを持つ単語で終わる詩行〕で締めくくってください。第2詩節の第4行は、問いかけるように行末で抑揚をあげて、その感じを詩行とともに終えるようにしてください。私がそのまま曲をつけることができればよかったのですが、そうすると音楽はもっと難しくなってしまい、人々に好まれるようなものではなくなり、目的に沿わなくなってしまうでしょうーー
この讃歌が、早くロンバルディーアの平原で大砲の音楽にまじって歌われますようにーー
あなたに全幅の尊敬を寄せる者からの挨拶をお受け取りください。
敬具
G. ヴェルディ
追伸、出版をお決めになったら、メンドリージオにいるリコルディ社の代理人カルロ・ポッツィにお問い合わせください。
1848年11月23日(木)パリ発ナポリ行
ヴィンチェンツォ・フラウト宛
私があなたにとって気難しくて気取った雰囲気をまとっているとしたら申し訳なく思います。私はきわめて率直であり、きっぱりとしていて、しばしば短気であり、いってみれば田舎者なのです。決して気難しいところも気取ったところもありません、もしもそう見えるとしたら私のせいではなくて周りの状況のせいなのです。あなたは私を喜ばせようとして絵画をくださいました。そのように私もいまにナポリに迎え入れられればよいのですが。ただ、失礼ながら、まさかとは思うのですけれども、あなたは神経をすり減らしてしまって幻を見るようになってしまい、黒でないものが赤に見えるほど健康を害しておられるという可能性はありませんか? もちろん、私はいつぞやのナポリ公演に満足したといえば嘘になるでしょう *4 。ですが、信じてください、私が苦々しく思っているのは公演の評判ではなくて、オペラとは何の関係もない膨大なむだ話なのです。なぜ私がそのようなものにふりまわされなければならなかったのでしょうか、私はなぜ長時間コーヒーに付き合っていたのでしょうか。あるいはなぜタドリーニ邸のバルコニーにいたのでしょうか、なぜ真剣な観衆たちと偉大な都市におよそ似つかわしくない明るい色の靴や無数のつまらないものを身につけていたのでしょうか。あなたの信じておられるところによれば、私の存在が公演の評判に影響したというのです! やめてください。くどいようですが、初めに申し上げましたように、私は少々田舎者なのです。そしてナポリでは、1度目に多数の欠点を指摘されたからには、二度目にも同じような目に遭うかもしれません。確かにここ1年半ほどパリにおりますが(この街にいる者は洗練されるといわれますが)、しかし私は、白状してしまうなら、以前よりもいっそう熊のように〔粗暴に〕なっているのです。私は、あちこちを転々としながら歌劇を書き続けてもう6年 *5 になりますが、そのあいだ1度も批評家に頼みごとをしたことがなく、味方になってくれるようにせがんだこともなく、成功するためにお金持ちにおべっかを使ったこともありません。一度も、決して。私はこうした方法をいつも蔑んできました。私は最善を尽くして歌劇をつくるだけなのです。ほんの少しでも私から観衆の考えに口を出そうとしたことはなく、巷間に流れる評価はただ流れるとおりそのままにしてきたのです。
しかし私たちの仕事とは何の関係もない前置きはこのくらいにしておきましょう。ご理解いただきたいのですけれども、私がナポリへ参上しなかったとしてもそれは私の意志のせいではありません。私は、自分がナポリの劇場にふさわしいものをつくることができるということをナポリ人にはっきり証明したいのです。でもまずはご検討いただき、私に新作をお任せくださるかどうかおっしゃってください。ご存じのように、昨年から私はここパリにてオペラ座と契約を結んでグラントペラを作曲しております。〔テノール歌手カルロ・〕グアスコと3年間契約するために書面を急遽作成してペテルブルクへ送ったところ、年間8万フランで合意を得ました。〔当初の予定では〕グアスコは10月からこちらにいるはずでしたが、しかし説明するまでもないさまざまな事情 *6 のせいで彼は足止めを食らっています。こうしたわけで、契約の延長または変更が生じるかもしれません。そのようにさまざまなことがここではしばらくのあいだはっきりしませんから、私はあなたに対してあの期日では絶対にむりだとは言い切れませんが確実に大丈夫だとお約束することもできないのです。
以上、事情を率直にお話しました。あなたがこの内容を伝えておくべきだと信じる相手以外には知らせないでください。とはいえ、あなたのお考えのとおりにお仕事を進めていただければと思います。この手紙はあなたにとっても私にっても拘束力を持つものではないからです。これからの未来が変わるようなことがあれば、私自身がいまの考えを変えることにいたします。――いまカンマラーノ宛の手紙の中に、《マクベス》 *7 についてさまざまなことを書いています。あなたも稽古に立ち会ってください、とはいえ一度見ただけでがっかりなさらないでください。あの歌劇はこれまでの私の他の歌劇よりも少し難しくて、演出 mise en scene こそが重要なのです。ここだけの話ですが、私はこれまでの自分の歌劇のなかでこの歌劇をいっそう好んでいますから、これが失敗するのを見たら残念な思いを抱くでしょう。ご理解ください、これは総じてきわめてうまくいくか、さもなければ台無しになる類のものです。だから演奏には細心の注意を払う必要があります。
さようなら、さようなら!
敬具
G ヴェルデイ
1849年2月1日(木)パリ発ヴェネツィア行
フランチェスコ・マリア・ピアーヴェ宛
親愛なるピアーヴェ、
ローマで受け取れなかった6月30日付のきみの手紙を今日こちらで受け取った。
きみは私から手紙を受け取っていないので嘆いている。私もまたこの3ヶ月間呪わしく思っている。私はきみ宛の手紙2、3通分に対する返事を受け取っていない。ペレッティも怒っているが、きみが彼に一筆書いてやれば彼は大喜びするだろう。
私はつらい気持ちでローマを離れた *8 が、すぐに、すぐにあそこへ戻りたいと思っている。いま、ここパリで抱えているこんがらがった問題をどうにかして片付けてしまおうとしている。それが済んだら、イタリアへ急いで戻る! きみたち善きヴェネツィア人に祝福あれ。何が起ころうとも、きみたちはあらゆる善きイタリア人から祝福され、感謝されるだろう *9 。ローマのこともロマーニャ *10 のことも私は喜んでいる。トスカーナ *11 も悪い方向へ進んではいない。それだけで私たちは大きな希望を抱くことができるではないか。私が懸念しているのはふたつのことだ。ジョベルティ *12 とブリュッセル会議 *13 だ。われらに救いあれ!
私はブリュッセルへ行ってそこで行われることをすべて見てきたい。フランスには何も望んでこなかった、これからも望みはしない! 仕事についてきみに率直なところを言えば、さしあたって今のところは何も考えていない。しばらくして必要が差し迫ってきたら、歌劇を一作か二作ナポリのために書くつもりだ。いまのところフランス語のものに作曲することにしている。だから今はあの執政官 *14 について考えてもしかたがない。
さようなら、わが親愛なるピアーヴェよ。何度も手紙を書いてくれ。そしてきみの周りで何が起きているか、何に望みをかけているかなどなど、たくさん書き連ねてくれ。
こころからの抱擁を、そして私を信じてくれ。
G ヴェルディ
1849年6月1日(金)パリ発ナポリ行
ヴィンチェンツォ・フラウト宛
いと親愛なるフラウト、
カンマラーノの韻文 *15 を同封したあなたの手紙を2通受け取りました。あなたはソプラノにガッザニーガを、またテノールにベッティーニを当てたいとお考えですが、今後変更すべき点が複数生じる可能性がありますから、歌手を決めてしまうにはまだ早いと私は思います。
他の新作やナポリ旅行につきましては、今のところは、以前書いた以上のことを申し上げることはできません。諸事情により、いまだにはっきりした予定を立てられずにおります。もっとも数日以内の小さな予定でしたら決められないことはありません。それにあなたがこうしたいとはっきりおっしゃってくだされば、私はその可否について直接お返事します。私はすでに仕事にとりかかっておりますから、あなたがカンマラーノを急がせてくだされば、歌劇制作は9月末には一段落つくでしょう。あなたが私に乞うておられた台本につきましては明日お送りします。もしもあなたがベッティーニ主演で歌劇《イェルサレム Jérusalem》*16 を上演したいとお考えでしたら、私はその上演にやぶさかではありません。ベッティーニは今この歌劇のリヨン公演で大成功を収めているからです。ただ私は、新作を舞台にかけた後にしたいのですが。《イェルサレム》は演出に関していえばあまりにも壮麗すぎます。私もあなたも十分に稼いでいるわけではありませんから、ことによるとそれを非常に素朴な衣装で上演することさえできないかもしれません。さようなら、さようなら。
G ヴェルディ
同封のものをカンマラーノにお渡しください、そして彼を急かしてください。
1849年7月14日(土)パリ発ローマ行
ヴィンチェンツォ・ルッカルディ宛
親愛なるルッカルディ
私はこの3日間きみの手紙をいらいらしながら待っている。きみはよく想像できるはずだ、私はローマの破局のせいで深刻な気持ちになっており、きみは過ちを犯してそんな私にすぐに手紙をよこさなかった。ローマについては語るまい!! *17 それが何になる!! 力がいまだに世界を支配している! 正義は? ……それが銃剣に対して何の役に立つ!! 私たちはもっぱら自分たちの不遇を嘆き、その原因を作った者たちを非難することしかできない! だからとにかくきみのことを話してくれないか!? きみの近況を教えてくれないか? 今どうしている? 私たちの新たなご主人様方から語る許可を得ていることをすべて語ってくれないか? 私の友人たちのことについても教えてくれないか?
すぐに、すぐに返事をくれ…… 一分も遅れないでくれ、地獄の劫火が私の胸中に宿っているのだから。
さようなら、さようなら。
友愛を込めて
G ヴェルディ
1849年9月7日(金)ブッセート発ナポリ行
ヴィンチェンツォ・フラウト宛
親愛なるフラウト
時間があまりございませんので、あなたに宛てて手紙をじっくり書くことができません。ですから手短に申します。あなたのおっしゃるようにいたしましょう、そして今回のエロイーザ *18 の後に歌劇をもう1作書きましょう。1850年の復活祭の翌日に上演するものです。そういうわけですから、私から最後に送った手紙(7月26日)の提案にしたがって、筋書きを私にお送りください。あとは、ナポリ王国全土におけるその歌劇の楽譜に関する諸権利をあなたに譲渡するにあたっていくら頂戴するか決めるだけです。金額は3回に分割してお支払いいただく必要があります。1回目は、私が広場に到着する日(公演初日のおよそ1ヶ月半前)です。2回目は管弦楽の練習の初日です。3回目はゲネプロの翌日です。契約書では、ナポリ王国におけるあなたの諸権利と、それ以外の地域における私の諸権利とを、明確に定義するようご留意ください。
現在作曲中の歌劇については、10月末の初演のために、私は同月8日か10日ごろにナポリへ参ります。私は完成したヴォーカル・ピアノ・スコアを持ってきますから、到着の翌日には私が稽古を始められるように準備を整えておいてください。この歌劇に関するお支払いにつきましてはかなり前の契約書をご参照ください。
さて、復活祭の翌日に上演する歌劇の台本について真剣に考える必要があります。といいますのも、制作を順調に進めるためには、カンマラーノが10月末を目指して草案を仕上げたうえで最初の部分を私に引き渡さなければならないからです。10月末といえば今回のエロイーザが山場を迎えているところですが、そのころには私はしばらくナポリから離れることになりそうですから、曲をつけるべき台本を携えて発ちたいのです。題材としては、ヴィクトル・ユーゴー『王は愉しむ Le Roi s'amuse』 *19 をカンマラーノに勧めておいてください。見事な信念で書き上げられた素晴らしい戯曲です。2人の主役にはフレッツォリーニ *20 とデ・バッスィーニ *21 が適しているでしょう。さようなら、さようなら。
追伸
復活祭後に上演されるべき歌劇に関しましては、私が劇場つき歌手の一覧表から配役を行う権利を頂戴いたしますので、ご了承ください。この取り決めを契約書に盛り込むのをどうかお忘れなく。
訳者による後注
*1 《レニャーノの戦い》のこと。
*2 パリの1848年2月革命以降ヨーロッパ中に広まっていった革命運動の影響のせいで、ナポリでも民衆が憲法制定を求めて蜂起したこと。
*3 この手紙からは、ヴェルディの鋭敏な政治的センスがよくうかがえる。重要なのは、当時流行したグエラッツィの戯曲に基づいて新作歌劇の台本のネタをピアーヴェに提案しながら、それをある歴史的事実に近づけたいと述べていることだ。その歴史的事実とは、1529年フィレンツェの事件である。すなわちフィレンツェが、教皇クレメンス7世および皇帝カール5世に反対してメディチ家の帰還を受け入れようとしなかったところ、神聖ローマ帝国の軍勢に10ヶ月間包囲されてしまい、最終的には抵抗もむなしくクレメンス7世の庶子アレッサンドロ・デ・メディチに征服される、というものだ。明らかに、ヴェルディは、このストーリーの歌劇化を通じて、その根本に、宗教も王権も独裁も拒む共和政国家の独立の試みという主題を据えようとしている。ここには、イタリア独立運動に対する当時のヴェルディの共感がはっきりあらわれている。少なくともこの時点では彼は、1861年に成立する立憲君主制のイタリアではなく、共和制のイタリアを夢見ている(マッツィーニ主義者のように。実際、1848年4月、つまりこの手紙を書く3ヶ月前、彼はマッツィーニと会っていた)。しかしその夢は潰えてしまい、ここで記されている歌劇の着想は実現されない。この手紙からもうかがえるように、革命運動はしだいに暴力的な混乱へ向かっていく。さらに1849年、マッツィーニの主導によりローマに誕生した共和国政権はごく短命に終わってしまうのだった。ヴェルディ中期の傑作はこの挫折のあとにこそ生まれてくる。
*4 歌劇《アルヅィーラ》が1845年にナポリで初演されたがまったく好評を得られなかったことについて言及している。
*5 ヴェルディはこの時点では歌劇《ナブッコ》(1842)を自らのデビュー作として扱っており、それ以前の《オベルト》(1839)、《一日だけの王様》(1840)を計算に入れていない。
*6 革命運動にともなう混乱。
*7 すでに前年の春にフィレンツェで初演されていた。なお、この手紙のあと、翌1849年のナポリ公演では、革命運動をおそれる当局の検閲により、マクベスに殺される人物が王から同僚の将軍に変えられてしまった。
*8 この「つらい気持ち」は、ヴェルディが自身の仕事で失敗したからではない。1月27日にローマでヴェルディ立ち会いのもと初演された《レニャーノの戦い》は大成功を収めている。むしろ、その時点でローマを発つと革命を見届けられないからだ。実際、1月21日から22日にかけて教皇の妨害を押し切って行われた憲法制定議会議員選挙では急進派が大勝しており、来たる2月9日にはマッツィーニやマンゾーニを擁するローマ共和国政府が誕生しようとしていた。
*9 ピアーヴェが参加していたヴェネツィア解放義勇軍は、この時点ではまだオーストリア帝国に対してもちこたえている。
*10 ロマーニャ地方はまもなくローマ共和国へ参加し、6月までもちこたえる。
*11 フィレンツェ周辺のトスカーナ地方は4月まで独立を維持する。
*12 ヴィンチェンツォ・ジョベルティ(1801-1852)、当時サルデーニャ公国首相。ローマ教皇主導によるイタリア統一を目指していた(その点で共和政を支持するマッツィーニ主義者ヴェルディとは相容れない)。
*13 オーストリア帝国が休戦をとりつけるべくこの会議の開催を提案していたが、サルデーニャ公国が反対したために実現しなかった。
*14 古代ローマの復活を夢見た中世の政治家コーラ・ディ・リエンツォ(1313-1354)のこと。ヴェルディは、1848年2月の手紙のなかで、彼を題材として歌劇を制作する計画について言及していた。
*15 歌劇《ルイザ・ミラー》(1849)の台本の一部とみられる。
*16 1847年パリ初演。《第一回十字軍のロンバルディア人 I Lombardi alla prima crociata》(1843)のフランス語版改作。
*17 イタリア共和国というヴェルディの夢はここで敗れる。1849年6月3日、フランス軍がローマ侵攻を開始、21日に前線を突破。30日、ローマ臨時政府解体。7月3日、ガリバルディがローマから脱出する一方で、フランス軍がローマに入り、実権を掌握する。ヴェルディはパリにいながら事態に大きな関心を寄せていた。パリでは、当時フランス第2共和政で大統領に就任したナポレオンIII世が、フランス国民議会で支持者を増やすべく、カトリック勢力に恩を売ろうとして、ローマ侵攻を主導していた。ヴェルディはパリに幻滅し、まもなくそこを去る。
*18 歌劇《ルイザ・ミラー》(1849)のこと。手紙8を参照。
*19 歌劇《リゴレット》(1851)の原作。ヴェルディは台本執筆を初めこのようにカンマラーノに打診していたが、のちにピアーヴェに依頼することになる。なお 、Wikipedia 日本語版の記事「リゴレット」ではヴェルディが1850年4月のピアーヴェ宛書簡で初めてこの題材に言及したことになっているが、その記述は事実に反している。今回訳出した書簡からわかるように、ヴェルディがこの題材を思いついたのは1849年7月のローマ共和政の挫折からそう経っていないころなのだ。
*20 ソプラノ歌手エルミニーア・フレッツォリーニ。
*21 バリトン歌手アキッレ・デ・バッスィーニ。