進め異形の者よ ―小夜『やどし木』



 萩尾望都の短篇に「イグアナの娘」というものがある。母親から「イグアナ」と言われ続けた娘は、そのように自らを、人間社会にまぎれこんだ異形の者だと思い込む。青年期にあっては、周りからは美しい女性に見えるのに、やはり自分をイグアナだと思い込んでいるせいか、いっそうのなじめなさを抱えたままだ。母親から逆に可愛がられていた妹に向かって、「いいさ/人間の/なかで」「一匹の/イグアナとして/一生を/送るのも」と話し、なお異形の者として生き続けようとする。

 異形の者。
 小夜『やどし木』にも、「しっぽ」を「引きずる」「ふじゆうなけもの」としての「わたし」が描かれている。この「わたし」も明らかに、類型的な人間の姿をしていない。

 前足も後ろ足も
 いまはまだ
 あるくためだけのもの
 手をつなごうとすれば
 からだはくずれ落ちる    (第四連から)

「前足も後ろ足も」、たとえばつなぐための手ではないのだ。他人からすればひとつの拒絶のポーズとも捉えられかねないこの姿勢は、しかし、ほんとうは拒絶の身振りではなく、人間のなかを歩いていこうとするどこまでも孤独な「ふじゆうなけもの」自身の、せいいっぱいの歩行のためなのだ。

 そしていつか前足だったものが両手に――歩くためだけにある足ではなく誰かとつないだり花をつむこともできる手に――なったとき、つまり「わたし」が四足ではなく「にほんあしで立っている」けものへ変わったとき、「しっぽ」は「土に還」る。いつか異形の身体を脱ぐ、その場所に、「種をひとつぶ埋め」、

 それから
 おぼつかない足で
 両腕をめいっぱいひろげて
 消えないきみを
 抱きしめにいく
 たしかな温度を撫でながら
 振り返る場所に
 ちいさな木が生えて
 それが空に向かって
 ずっと伸びていく姿を
 見届けては また
 歩いていこう        (第十一連)

 その場所に生えてくる「木」を「ふりかえり」ながら歩いていく。
 詩のなかで繰り返される「わすれがたみのきみ」の「ほのお」というこだまは、この「わたし」の異形の由に関わっているかどうかさだかではないが、文字通りの木霊だ。いつか二本足になったあとでその「木」を何度でもふりかえるのと同じように、「わすれがたみのきみ」――「わたし」が四本足のあいだは、繰り返されるルフランの風になって「すこし遠い」場所を吹いていく、その風――を傍らに異形の「わたし」は歩いていこうとする。

 美しい異形の者。
 周りからは美しく思われるのに、自分自身を禍々しいものだと規定しながら、そのままの不自由な身体を抱えて孤独に歩いていく者。

 自分自身を禍々しいものだとただ規定するだけなら、ある種のニヒリズムを持てば、いくらでもできる。たとえば(あなたが詩人なら)、言葉を綴ることはわざわいだ、などと言うこともできる。だがそんなことばかりを言っていても仕方がないし、実際そういう、ただ偽善的だか偽悪的だかよくわからない態度にはぼくは飽き飽きしてしまっている。
 不自由な身体を抱えたまま、歩かねばならないのだ。黙って歩かねばならないのだよ。いつか覚えたうた、ルフランの風の叫びを傍らに。
 異形の者よ。人間のなかに放り出された一匹のイグアナのように、ただ静かに孤独に歩行せよ。