典拠:D'Annunzio, Gabriele. “A proposito della «Giuditta»”. Pubblicato con un peudonimo d'autore, Duca Minima, su La Tribuna, 14 e 15 marzo 1887.
訳者名:原口昇平(連絡先
最終更新日:2014年7月26日  ※引用の際には典拠、訳者名、URL、最終更新日を必ず明記
 
《ジュディッタ》に関して           ガブリエーレ・ダンヌンツィオ
 

I

 昨夜アポッロ劇場で行われたスタニスラオ・ファルキ Stanislao Falchi による新作歌劇の初演は、私にとって特別に重要だった。あの公演は、当世の音楽劇であるあの芸術形式の内容のなさ、無益さ、くだらなさをあらためて証明していた。
 作曲家ファルキ氏は、ブリジューティ氏 Brigiuti およびマンチーニ氏 Mancini の醜い言葉に音楽をつけていたさなかに、いかなる意図を持っていたのだろうか。彼はいかなる芸術的理想に近づこうとしていたのだろうか。あるいはまた、少なくとも、いかなる模範、いかなる伝統に倣おうとしていたのだろうか。マナセ Manasse の未亡人を自らの音楽劇の主題として選ぶことに関して何か彼なりに理由があったのだろうか。あるいは、クンディナマルカ Cundinamarca の立法者ボチカ Bochica 、徳川家康大権現 il divino Tokougava Yéyass 、グンドバルド王 Gundobaldo の孫娘に関する抒情詩を、あのご立派な大詩人であるおふたりさんから受け取っても事態は変わらなかっただろうか。そして、ジュディッタ〔旧約聖書外典のひとつに登場する女性ユディト〕を選んだとして、そのイスラエルの英雄を主役とする劇を表現するのに、どんな音楽的要素をもって臨んだのか。結局のところ、ファルキ氏はこの新作歌劇を作曲するにあたって何をしようとしたのか。
 卓越せるマエストロは明らかにそうしたことについては関知していない。思うに、私の問いかけに答えるのもいやがるだろう。彼はただ他の若い音楽家たちがいつごろからかここらでしているのと同じことをしただけだ。彼は、みごとな戯言に満ちた、未開人のような韻律法による詩行ばかりの並ぶ劣悪な台本をとりあげた。そしてそれに音楽を付すにあたって、まるで音楽院の講義室で学んだことについて先生方の前で試験を受けねばならない学生のように、自らの対位法の教理を各所に辛抱強く適用しようとしたのだった。
 この骨の折れる推敲作業のさなか、彼はたくさんのさまざまな要素を放り込んだ。少しばかり田舎者の調理人が、大きな土鍋の中に、さまざまな種類の豆をぶち込んで、残飯やらあまった保存食やら塩漬けばかりでなく各種ばらばらの料理の味付けに使われるさまざまな香草までをも加え、大量の水と動物性の油を注ぎ、炭火で熱しつつ念入りに混ぜ、ついには煮立った大鍋のなかですべてを少しずつ土止め色の汁に溶かし込んでいきながら、いちばん固いものばかりをその表面に浮かび上がらせる。ちょうどそのように、この若きマエストロは、ばか正直に念を入れてはヴェルディ、ドニゼッティ、マイアベーアふうのごちそうのかけらを集めて、ロマンツァ・ダ・カーメラの作曲家たちや大衆歌謡の歌手たちの小粒どもを軽蔑することなく、またワーグナーふうのいくらかよいスパイスを捨て去ることもない。そして互いに対立しあうそれらの構成要素をひとつの管弦楽的ごった煮のなかに溶かし込もうとして、その余地もないごった煮のなかにあまりにも多くのかけらを浮かばせたままであるのだ。
 けれども調理人と若きマエストロとのあいだには違いがある。その違いは見かけとはうらはらにきわめて重大だ。前者は決まったかたちと決まった大きさの鍋を使うけれども、後者は一定の限度を持たないうえにそれを決めようもない。つまり不定形なのだ。
 
 要はこういうことだ。
 私は、芸術に関して言えば、伝統や決まった形式の、いわば定型の信奉者だ。特に音楽については、イタリアの古いオペラ・セーリアに与しており、過度に自由であり、過度に大きく、過度に不定形であるいわゆる近代的音楽劇に反対している。よりよく言えば、オペラ・リーリカは汲み尽くされて死んだ芸術形式であると信じている私は、リヒャルト・ワーグナーにたくさんの珠玉の着想と知恵をほんとうに感嘆するほどふんだんにむなしく浪費させたこの狂った不条理な変革よりもむしろ、古きものへの回帰を好ましく思うのだ。
 確かにリヒャルト・ワーグナーは、自分の実現したい改革に関してたいへん明快かつ正確な考えを持ちながら、晩年の仕事では新しい芸術形式に一定の限度と一定の厳密な規則を与えること、また劇の構成といわば劇の建築を司らねばならなかった一定の揺るぎない法を確立することに成功した。この裏付けのためには《パルジファル》を考察すれば十分だ。それは、ワーグナーがフランスにおける彼の理想のきわめて熱狂的な擁護者であったフレデリック・ヴィヨ Frédéric Villot に宛てた有名な書簡のなかで早くも1860年にすでに明かしていたシステムの最終的な到達点である。
 しかしスタニスラオ・ファルキ氏は、いや彼も含めてすべての若きマエストロたちは、劇についてどれほど明快かつ厳密な構想を持っているのか。彼らは自らの仕事の中でいかなる限界によって制御されているのか。どこから出発し、どこへ行こうというのか。
 この《ジュディッタ》はあの種の音楽の素晴らしい実例だ。つまり、無益かつ潤沢で、内容のない気取りに満ち、生彩を欠き、活力もなく、ひとつも独創的な理念を有さず、真の深い霊感を秘めず、何か新しいものの探究を示唆する運動をまったく持たない音楽だ。彼の探究はもっぱら諸「効果」をめぐっている。ファルキ氏は、影合唱の「遠方からの声」から騒々しいフィナーレのトランペットのかん高い音まで、歌劇場の古臭い俗悪な技巧をひとつも捨て去ろうとはしなかった。彼の音楽は過ぎ去り、過ぎ去り、過ぎ去るのだ、無限に。一時間、あるいは五時間も続けられるかもしれない。実際にそれくらい続いた。あるいは一日中だって、一週間だって、永遠に続けられるかもしれない。終わる理由もなければ始まる理由もない。無為なのだ。
 ファルキ氏は、この《ジュディッタ》で芸術作品をつくったのではない。産業製品をつくってしまったのだ。そして、この場合でも、もっとうまくできたはずだった。明日そのことを論証しよう。
最小公 Il Duca Minimo

『ラ・トリブーナ』1887年3月14日付号


II

 そういうわけで《ジュディッタ》は芸術作品ではなく単なる産業製品であって、スタニスラオ・ファルキ氏はもっとうまくやれたはずだと私は昨日述べた。
 私はできるかぎり明快に問題を提起する。歌劇は、疑いなく、汲み尽くされた一形式である。自然の掟にしたがって、十分に生産したならば、存在することをやめねばならない。それゆえ、すでに死んだこの形式を活気づける試みはなんであれ無益であり不合理である。そして近代の歌劇はどれであれ、たとえ天才のしるしを見せるものであったとしても、生存理由を持たず、避けがたく消え去るさだめである。
 いかなる新しい芸術形式が歌劇 il melodramma に代わるだろうか? 答えを出すのはたやすくなく、またきわめて深刻な議論に至るかもしれない。さしあたってこの点については判断を保留しておこう。
 しかしこの問いからあるひとつの真実が浮かび上がる。私たちは、音楽の領域においてもまた、過渡期のなかにいる。すなわち諸々の再生に先行する秩序なき困難な一時期のひとつだ。この嵐の時代に生きる芸術家たちは不幸である。というのも彼らの作品は、たとえ準備の要素としてか科学的に無粋にいってみれば基層の要素としてなら役に立ったとしても、生気そのもの vera e propria vitalità を欠いており、したがって時の流れに耐えはしない。それは一時的なものなのだ。われわれの芸術制作全体(あえていえばその最良の部分)のうち1割ほどが来世紀にたどりつくだろう。
 ではどうすべきか。芸術の他の諸部門についてはさておくとして、私の思うに、音楽に関しては、そしてとりわけ劇音楽に関しては、最良の策は諸々の源泉へ遡行することである。
 歌劇 il melodramma は死んだ。しかし伝統により、また慣習により、ひとびとは劇場における音楽の気晴らしをいまだに愛しており、それゆえに歌劇場はいまだに存在しており、地方自治体から助成金を受け取り、一般大衆から好まれている。各歌劇場のねらいは市民を楽しませることにある。市民というのは、つまり多数かつ多様な観客のことであって、要するに聴衆のことだ。それゆえに、真の芸術家たち全員の意識がこのジャンルの仕事を非難しているにも拘わらず、歌劇場のために歌劇を書くということは、それも4, 5時間ものあいだひとつの閉じた場所のなかで聴衆をもてなすという意図のみをもって歌劇を書くということは、産業 industria なのであり、芸術の下降なのであり、堕落なのであって、それ以上でもそれ以下でもない。
 ファルキ氏は言い逃れできない。なぜなら彼はこう答えられないからだ。「いや、私は何か新しいことを試みたかったのだ。私は新しい道を探している。私は発見するために仕事をしているのだ。」ファルキ氏は何も試みず、何も求めず、何も発見しない。彼はローマ市の栄誉ある産業編集者だ。
 
 聴衆の大多数は歌劇を放棄する覚悟を持っていない。また残念ながらいくらか聴衆に認められる必要がある。だから、若きマエストロたちにとっての最善策は、源泉へ回帰することであり、つまり古いイタリアのオペラ・セーリアまたは古い音楽道化劇 burletta へ立ち戻ることである。あるいは少なくとも、18世紀の音楽劇の古典的精神を取り戻すことだ。いわば「音楽のための音楽」をつくるのだ。劇的効果、心理的効果、地方色、近代の歌劇を構成するその他のあらゆる偉大な革新を気にかけなくともよい。
 18世紀後半、音楽は穏やかにわが道を歩いていた。まだ若く堅牢であって、自発的な力によって、すなわち自らの生の力そのものによって、あたかもちょうど青春の入り口にさしかかる若者のように、自ら変化しながら少しずつ少しずつ成長し、歩んだ。わざとらしく念を入れる必要はなく、いかなる教説、体系、理論によっても強化される必要はなかった。なぜなら老朽のしるしを少しも持っていなかったからだ。そして、たとえ何らかの軽い疾病にかかったとしても、たちまち治って、病変を残しはしなかった。聴衆は、疲れ知らずであって、いかなる種類の「効果」も求めてはいなかった。純粋な大文字の美を持ちえたからだ。「性格」も、歴史の情景も、神話的アレゴリーも求めてはいなかった。ヴァーノン・リー Vernon Lee が述べたように、音楽の他には何も求めてはいなかったのだ。ギリシャ人、ローマ人、ペルシャ人、中国人、インド人、ホメロスとアリオストの英雄たち、旧約・新約聖書の登場人物たち、すべてのひとびとが同じ仕方で歌っていた。なぜなら、たったひとつの作法しかなかったからであり、しかもそれはよい作法だったからだ。まさしくルネサンスの聖人たちと英雄たちが同じよそおいをとっていたように。前世紀のオペラは、ヘーゲルが述べているように、本質的に古典的であった。オペラの主要なねらいは、純粋に芸術的であって、劇的なものや心理的なものとは異なっていた。台本が音楽を示唆していたのであって、音楽が台本を説明していたのではなかった。そして舞台上で展開される音楽は、ある定まった形式に、決められた規則的な形式にしたがっていた。
 18世紀において、ひとびとは、私の思うに、歌劇場の動機と目的をわれわれよりもずいぶんよく理解していた。そして作曲家たちはそれらについてずっと正しい考えを持っていた。18世紀において、数年以上生きながらえた歌劇はひとつもなかった。大きな都市国家はどこも、毎年、歌劇を1つか2つか3つ特別に上演し、そして他の都市国家や他の音楽の中心地に由来する歌劇を1つか2つ輸入していた。新作歌劇は、雇われ歌手たちの組合のために作曲されていた。作曲家は、いわば、自分のものさしをとること、それぞれの歌手に合わせて書くこと、そしてそれぞれの声の特別な力すべてから引き出されたものを扱うことができた。ゆえに、概して、ひとつの歌劇は、かつて最初にそれを上演していたひとびと以外によっては上演されなかった。言ってみればそのひとびとが所有権を引き継いでいたのだ。18世紀にもっとも人気を集めたオペラ・セーリアはみな、誰か偉大な歌手に分かちがたく結びついていた。例えば、ハッセ《アルタセルセ》〔(1730)〕はファリネッリ〔(1705-1782)〕と、グルック《オルフェオ》〔(1762)〕は〔ガエータノ・〕グァダーニ〔(1728-1792〕〕と、ベルトーニ《クイント・ファビオ》〔(1778)〕はパッキエロッティ〔(1740-1821)〕とだ。歌手はそれらをヴェネツィア、フィレンツェ、ルッカ、ウィーン、ロンドンなどいたるところで歌った。後年同じことをジュゼッペ・ヴェルディの歌劇《オテッロ》でやるのが〔フランスのバリトン歌手ヴィクトル・〕モレルと〔イタリアのソプラノ歌手ロミルダ・〕パンタレオーニである。
 聴衆はもっぱら音楽のみを求めていた。言葉については気にかけていなかった。18世紀のマエストロたちはみな、ピエトロ・メタスタージオの歌劇〔台本〕ほぼすべてに作曲していた。ときには同じ台本に2度3度と曲をつけたこともあった。聴衆は台本をそらで覚えていたので、音楽に最大限の注意を向けることができたのだ。音楽は新しく、予想しない展開に満ちていた一方で、聴衆は誰もが生まれたときから知っていたのだ。ゼノビアは夫の手にかかって死にはしないということ、アルタセルセの杯には毒が入っているということ、メガークレは最後にアリステーアと結婚するということ、ティマンテはディルチェの兄弟ではなかったということを。
 聴衆は、怒りの恐るべき暴発に、殺人の企てに、身の毛のよだつ神託に、復讐の誓いに、同種の「劇の急転回」に、依然としてまったく無関心であった。それは、決して注意を引きはしなかっただろう。台本には何の重要性もなかった。音楽がすべてだったのだ。歌劇場の音楽は歌手にふさわしいように書かれていた。というのは、当時、聴衆は、ガブリエッリ、マルケージ、ダヴィデ、ファリネッリ、パッキエロッティを聞くことを好んでいたからだ。ちょうど、今日、聴衆がフランチェスコ・マルコーニ、メデーア・ボレッリ、ジューリオ・デヴォヨドを聞くことを好むように。
 歌劇は死んだ。しかし歌劇場はいまだに存在している。そして「ヴィルトゥオーゾ」たちもだ。
 では、若きマエストロたちは、ほんとうに必要に駆られて劇場のためにいやいやながら書かされるのであれば、ロマン主義の諸理論と体系を捨て去り、良質の純粋な音楽の作曲にとりかかって、古典的形式を取り戻し、それに近代的に生気を与えて刷新してはどうだろうか。
 カリッシミ(-1672)からチマローザ(-1801)まで、5世代の芸術家にわたって、芸術はなんと咲き誇っていたことか、なんと豊かで自由で自然だったことか。
 ファルキ氏よ、こうもよく働く蜂であるあなたよ、あの庭へ入り、熱心に〔神々の生命の酒〕ネクタルを熱心に吸いたまえ。見よ、他の花々、他の蜜を。
最小公 Il Duca Minimo

『ラ・トリブーナ』1887年3月15日付号