典拠:D'Annunzio, Gabriele. "Canzoni" La Tribuna, 14 novembre 1886
訳者名:原口昇平(連絡先
最終更新日:2015年 3月 5日  ※引用の際には典拠、訳者名、URL、最終更新日を必ず明記
 
数々の歌     最小公イル・ドゥーカ・ミーニモ *1
 


 私は今でもときどきあのころの甘美な思い出に浸る。フランチェスコ・パオロ・トスティ*2が首都〔ローマ〕で暮らしていたころのことだ。彼は芸術家たちによる小さな夜会の中心人物だった。トスティは決まってカッフェ・ディ・ローマのとある奥まった一角のテーブルで食事を摂り、また主にプレフェッティ通りのある家に住んでいた。そこは不思議な家だった。暗い廊下や身を隠す場所がいっぱいあって、そこに私たちのうち誰であれ度々、女性の不気味な忍び笑いがあふれるのを聴いたものだ。
 チッチッロにあった彼の住処はどちらかといえば狭い小部屋だった。そこはとくにミケッティ *3 『聖体祭』の下絵で知られていた。あのみごとな下絵のなかでは、惜しげもなく散りばめられた色彩が、ひょっとすると近代の他のどんな画家たちにも追いつかれていないかもしれないくらいに力と生気を持っている。「生よりももっと生き生きしている。破裂しそうになるほど詰め込まれた炭酸水のビンのなかに限界まで沈殿して凝固した生よりも!」と収集家〔ルイ・〕ラ・カーズ *4 は言ったそうだ、ゴンクール兄弟 *5 が彼らの日記で述べたところによれば。『聖体祭』は、落ち着くことなく新たな芸術を探究している私たちにとって、描かれた預言なのだ。それは、私たちの〔いわば〕教会のなかで、数ある絵のなかの最高の絵だった。部屋を飾る他のものといえば、コスタンティーノ・バルベッラのテラコッタ、青銅製品、マヨリカ焼、漆器、絨毯だったが、それらの輝きはみなあの絵画があったからこそなのだ。
 あそこでは、あのサロンでは、午後はなんと楽しかったことか、また夕べはなんといっそう楽しかったことか! トスティは、気分の乗ったときには、何時間も何時間も疲れを知らずに音楽を奏でては、ピアノの前でわれを忘れ、しばしば熱くなってまったく並み外れた着想に恵まれつつ即興までしていたものだ。私たちはソファーなり地面なりに横たわっては、内輪の平和な場所に音楽をもたらすある種の魂の陶酔にとらえられていた。そして長いあいだ静かに耳を傾けては、ときには瞳を閉じて、夢をもっとしっかり追いかけようとした。またいくらかの瞬間には、あまりにも神経が熱狂してしまったせいで、私たちは互いに青ざめた顔をのぞき込むか、あるいはみなぎりすぎた力のせいでもあるかのように息苦しく感じたものだった。音楽はある種の魔法陣のなかに私たちを閉じ込めてしまっていたのだ。そうしたことを2ヶ月ほど習慣として経験すると、感覚があまりにも研ぎ澄まされたために、外界で何かことあるごとに私たちは深く苦しんだり動揺したりするようになってしまった。ほとんど病人になってしまったのだ。私たちはいつどこにいようがひっきりなしに何かのアリアや何かの楽句に追い立てられるようになった。
 あの年、私たちの宴にしばしばマリー・テシャー *6 がやってきていた。マリーはナイチンゲールの声をもつきわめて麗しい神の被造物だった。彼女が実に甘美な情熱と実に洗練された歌唱技術をもってシューベルトの歌曲を歌ったので、トスティはしばしば感激のあまり伴奏をやめて、ものも言わずに熱狂的な身ぶり手ぶりを始めてしまったほどだった。マリーは、実に高貴で、華奢で、従順で、ほとんどいつも黒いレースをまとっているか虹色の黒玉をしつらえたメリヤスに身を包んでいて、歌いながらリズムに合わせて少し身を揺り動かしていた。そのさなかはまるで一輪の大きな花のように見えた。
 あの年、そのサロンには他にもナポリの歌い手が数人ばかり姿を見せていた。その歌い手たちは幾たびもの夕べに私たち一同をたいへん喜ばせてくれたものだった。彼らはトスティを熱狂的に讃嘆しており、ギターやマンドリンの伴奏にのせて明け方まで歌ったものだった。マリー・テシャーはその歌い手たちから《ブラウス》 *7 を学び取り、後でそれを小声でウィーン貴族らしい抑揚でナポリ方言を発音しながら私たちに聴かせた。その掛け合い歌は魅惑的なものだった。

 昨夕、私たちがこのたび開始することにしたサロンにて、私があのころを思い返しているあいだ、歌い手たちがマリオ・コスタ *8 の《セレナテッラ》を歌っていた。その歌手たちのひとりが私を見て叫んだ。「だんな Signurì、あなたですね!」
 数年が経っていたが、よき歌い手たちはいつもよき歌い手たちだ。生きがよくて、少しばかり図々しくて、慇懃な姿勢をとっており、声の抑揚に感情をたっぷり込めていて、まわりに調子をあわせることができ、陽気で、疲れ知らずだ。彼らはナポリらしい服を着ていなくても、互いに楽器を持って集まってきて、絵になるような一団を成す。その歌は彼らのふるさとの港湾の香りと光を運んでくるかのようだ。
 昨夕、あの歌手たちは居合わせた者すべてに熱い感嘆を引き起こした。ペッピーノ・トゥルコ *9 は実にこころから喜んでごきげんになり、10年は若返って見えるくらいに顔を紅潮させた。デ・レンツィス男爵は、ふだんは物静かで完璧に優雅にふるまっているというのに、数度すっかりわれを忘れていた。ジョヴァンニ・ズガンバーティ *10 はとても寛大に微笑んでいて、ひょっとするとリヒャルト・ワーグナーもまた休暇中には好んでロマに歌わせたものだったことを思い出していたのかもしれない。グリエルモ・カノーリ *11 はまるで自らの息子たちの大成功を目の当たりにした父親のように感動していた。そしてデ・アンジェリス夫人、トゥティーノ夫人、フェッリ夫人、ナターリ夫人、セラフィーニ夫人、コスタ夫人、パレンツォ夫人、バッカリーニ夫人、ファッブリ夫人、ロディ=オッサーニ夫人といった美しいご婦人たちがみな心の底から歓喜していた。
 その合間に、マリオ・コスタは、他に並ぶもののない歌唱技術で、きわめて洗練されたつくりの、たいへん鮮烈な着想の歌曲をいくつか歌った。マルコーニ騎士はデンツァの《フニクリ・フニクラ》《セレナータ 》を歌った。フローラ・マリアーニ=デ・アンジェリスは、《ミニョン》のロマンザを歌い、それから《ドン・ジョヴァンニ》の2重唱でツェルリーナのためらう震え声をやってのけて聴き手をまったく魅了した。そのとき彼女を申し分なく助けたフランチェスケッティ氏は、次にトスティ《理想の女》できわめて甘美な抑揚を聴かせた。そして偉大なるマルトゥッチ *12 の最も力量ある最愛の弟子のひとりにして若きマエストロであるグイーダ氏が、比類なく表情に富んだルビンシテイン編《埴生の宿》を正確に弾いた。
 みなにとって初めて耳にするものだったのは、ラヴォリ姉妹の歌ったやはりルビンシテインのリートだった。初めて耳にするといったが、そのよく知られたリートのことではなくて、歌い手のほうだ。姉妹はローマのある名門に生まれたのだったが、イタリアや外国の他の諸都市にてずいぶん評判になってから、昨夕はじめてローマの社交界に姿を現した。姉妹の声は、澄み切っていながらも活力にあふれており、さまざまな確かな努力のおかげで調子を変えることができた。私たちは、なるべく早く今度は劇場で彼女ちらに拍手喝采できるように祈っている。というのは、姉妹はほんとうに大劇場や大聴衆にふさわしい歌い手だからだ。
 居合わせた政治家たちのうち、デ・レンツィス男爵の他には次の人々が際立っていた。パレンツォ議員、ファビオ議員、ダミアーニ議員、マウリージ議員、エンリーコ・フェッリ議員だ。その皆様方に、とりわけご婦人方に私たちは感謝申し上げたい。そして来たる12月3日から、金曜日には私たちのサロンへ通いたいと欲してくださることを願う。まったく気取ったところのない夜会だけれども、きわめて和やかで華やかになる。もしも、ご婦人方がいらしてくださるなら。

『ラ・トリブーナ』1886年11月14日付記事




訳者による後注 
*1 Gabriele d'Annunzio (1863-1938) がローマで新聞記者として働いていたころに頻繁に用いた筆名のひとつ。
*2 Sir Francesco Paolo Tosti (1846-1916) 作曲家。ナポリ音楽院に学び、はじめイタリア王室の、次いでイギリス王室の声楽教師を務める。サロン向け歌曲を多数残している。
*3 Francesco Paolo Michetti (1851-1929) 画家。トスティやダンヌンツィオの同郷人。『聖体祭 Corpus Domini 』は代表作のひとつ。
*4 Luis la Caze (1798-1869) 医師。署名な蒐集家。
*5 Jules Huot de Goncourt (1830-1870) & Edmond Huot de Goncourt (1822-1896) 作家、美術評論家。
*6 Mary Tescher 詳細不明ながら、トスティからいくつかの歌曲を献呈されている女性。ただしそちらでは Marie と表記されることが多い。
*7 A' cammesella ナポリの俗謡。1875年の作。男女1組で交互に歌われる。内容としては、男性が女性に着ているものを1枚脱ぐように求め、女性が恥じらいながら1枚脱いで、それを繰り返していくというもの。酒宴の芸。訳者の個人的な感想としては、ナポリ方言を理解しない外国人の貴族女性にそのようなものを教えるというあたり、まったくごたいそうな趣味だと思われる。
*8 Mario Pasquale Costa (1858-1933) 作曲家、テノール歌手、ピアノ奏者。ナポリ音楽院にて学ぶ。多数の歌曲やオペレッタを制作した。
*9 Peppino Turco (1846-1907) 作詞家、作曲家、歌手。《フニクリ・フニクラ》の作詞で有名。
*10 Giovanni Sgambati (1841-1914) ピアニスト、作曲家。イタリア王室のピアノ教師。1877年、親友のE. ピネッリとともに聖チェチーリア音楽学校(のちに音楽院)を公式に創設。
*11 Gugliermo Canori (1842-1912) 台本作家、役者。1885-87年、および1893年にローマ歌劇場の支配人を務めた。
*12 Giuseppe Martucci (1856-1909) 作曲家、ピアニスト、指揮者。1875年から演奏旅行で独英仏をめぐる。1880年からナポリ音楽院ピアノ科教授、1886年からボローニャ音楽学校校長、1902年からナポリ音楽院長を歴任。ワーグナーを始めとするドイツ音楽のイタリア演奏に尽力するとともに、歌劇の陰に長らく追いやられていたイタリア器楽の復興に取り組んだ。