典拠:D'Annunzio, Gabriele. "Il primo concerto." La Tribuna, 23 gennaio 1885
訳者名:原口昇平(連絡先)
最終更新日:2015年 2月13日 ※引用の際には典拠、訳者名、URL、最終更新日を必ず明記
年始の演奏会 ヴェーレ・デ・ヴェーレ *1
昨日は快楽の一日だった。午後のとてつもないあの気だるさのなかで、薄靄に覆われた光の愛撫のなかで、まるで陽光があたたかい血潮のように通り過ぎていくあの爽やかな空気のなかで、私は、すっかり音楽の霊感に襲われて、全身で楽器のように震えるかのように感じた。時間が来るのを待っているあいだ、都市の広場から広場へとさまよい歩いていた私の幻想のなかに、18世紀のメヌエットやシューベルトの歌曲 romanze がどれほど満ちあふれていただろう。
午後3時ごろ、ドリア=パンフィリ宮殿にて、パレストリーナの大理石製胸像が立つバロック様式の広間は、すでにほとんど満員になっていた。大勢のドイツのご婦人方が金髪をなびかせ、黄金のそばかすを散らし、色とりどりのヴェールで顔を覆って、栗色のビロードづくりか黒玉または毛皮で飾り立てた藍色のビロードづくりの普段着をはおって、最前列に座っていた。イギリスのご婦人方は、高潔にして厳かであり、顎を少し突き出しつつ首筋をあらわにして、ブラッシュ peluche か羊毛のいつものケープをまとい、燃える燭台のもと、室内の隅に群れをなしては歯並びをむきだして話し合っていた。それから、大勢のブルジョワジーの女たち、オーケストラ団員の姉妹や叔母や母や友人たち、大勢のピアノ愛好家の女性たち、歌唱技術 arte del canto を磨いている独身未婚の女性たち、そしてヴァイオリン奏者やフルート奏者やクラリネット奏者を下宿させている女主人たちが、みな呼びかけに応じて集まってきて、残りの空間を占めていた。
このうち最後の人々においてもっとも流行していたのは、暗色の服装、男性型の小さな上着、縦に襞の入ったスカート、クリーム色の絹レースづくりのきわめて高貴なタイ、赤や黒の羽飾りのついた帽子、明るい色の革手袋、蜘蛛やスカラベを象った銀のブローチであった。
貴族や上流階級の淑女方のうち、偉大なる貴婦人スフォルツァ=チェザリーニ公爵夫人の姿は私には忘れがたい。夫人は実に高貴に色白く、わずかにオリーブ色がかったような顔色をして、訪問用の黒いビロードづくりの豪華な服装に身を包み、小さな帽子を戴いておられた。そして、オデスカルキ公爵夫人、ジュスティニアーニ=バンディーニ公爵夫人、コロンナ公爵夫人、ドーリア公爵夫人、ソンニーノ公爵夫人、デル・ドラーゴ公爵夫人、プリーモリ伯爵夫人、ヴェスピニャーニ伯爵夫人、スパッレッティ伯爵夫人、デッラ・ソマーリア伯爵夫人、ヴィテッレスキ侯爵夫人、デ・フォンテーヌ男爵夫人らを私は見た。彼女らは主にビロードや黒レースや黒玉づくりの訪問着や散歩着をまとっていた。
マルッキ嬢はあの鉛色のビロードづくりの服を着ていた。狩人たちが用いる縞模様のビロードだ。そして薔薇色を帯びた顔を、真珠色のヴェールで覆っていた。彼女はこうしてとても麗しく、またとても調和を保っていた。
この狩猟スタイルの布地はどうやら流行しはじめているようだ。広間にはもうひとり令嬢がいて、私の知らないひとだったが、やはり同じ布地の上着を着ていて、しかしこちらは薄茶色だった。また数日前、ララ伯爵夫人が近寄りがたいコーカサスの猟犬を連れて大通りを過ぎていくのを私が見たとき、夫人はボディスに年代物の磨かれた銀の大きなブローチをつけていて、赤い革ベルトを締めていた。
演奏会は《フィガロの結婚》序曲とともに華々しく生き生きと始まった。その次はベートーヴェンの英雄交響曲だった。とくに第2楽章と第4楽章は完璧だった。
葬送行進曲〔=上述の交響曲の第2楽章〕の最終小節が終わるやいなや、広間にフランツ・リストがジョヴァンニ・ズガンバーティ *2 を伴って現れた。豊かな髪に恵まれたふたりのマエストロは、群衆が好奇心と憧憬からざわめいているそのなかを通って行った。フランツ・リストの金属的な毛髪はこれまでになかったほど光沢と堅さを増していた。ジョヴァンニ・ズガンバーティの油を含んだ柔らかい毛髪はその丸顔のまわりで揺れて震えていた。
リストは体をすぼめた姿勢でオーケストラの近くに座った。自作の《アンダンテ・レリジオーソ》を聴くためだったか、あるいはひょっとすると老年にして大成功を収めているという実に甘美な高揚感を味わうためだったかもしれない。
《アンジェルス》は素晴らしく情熱的に演奏された。しまいには、リストの信奉者たちの一団が立ち上がってマエストロに拍手喝采を浴びせた。マエストロはもったいなくもお辞儀をして謝意を表した。スフォルツァ=チェザリーニ公爵夫人はご自分の席から立ってマエストロと握手し祝意を述べた。ヘルビッヒ夫人 Madame Helbig *3 は、高さの低い帽子をかぶっていて、その陰でパンタグリュエルのように微笑んだ。
《ワルツ=キャプリス》の後で、フランツは、あの魔術師フランツは、ヘーゲルマン夫人 *4 に付き添われて広間を出た。あとに取り巻きの女性たちの一団が続いた。ヘルビッヒ夫人は、大きくて立派な服に身を包み、その身を揺すっては大きな声で語って笑っていた。エウジェーニオ・ケッキ氏 *5 は〔リストの?〕名高い豊かな頭髪に鋭い視線をじっと凝らして、何かトリックでもないか見つけ出そうとしていた。
ジョヴァンニ・ズガンバーティは自らの仕事をしているあいだ15世紀のエーオロ *6 の風貌だった。ヘーゲルマン夫人は栄光の反射によってすっかり輝いていた。他のご婦人方はみな嫉妬していた。フランツは石像のように直立不動となって、自分の代わりにひとに何かさせたりどこかへ行かせたりしていた。
演奏会の後は二次会として野外にて舞踏会が行われた。
それは率直にいえば一次会と変わりはなかった。ただひとびとが美をいっそう競い合い、踊りにいっそう熱を入れたことだけが違っていた。
チーニ伯爵夫人はレースの際立つ黒のドレスに身を包んでいた。テオドーリ侯爵夫人はやはりレースのついた薔薇色のドレスで飾り立てていた。セルモネータ侯爵夫人は薄紫色を召していた。フランチェゼッティ伯爵夫人はきわめて華美な赤だった。アントゥーニ公爵夫人は暗赤色と銀色、ロソー公爵夫人は燃えたつがごとき暗赤。およそこうした女性たちが、一面の純白のなかで生き生きとした調べにのって踊っていた。
コティヨン *7 はきわめて活発だった。一度目よりもはるかに華々しかった。三人の先導者たちは概してこのうえなく粋な風貌であった。
三次会はいつになる? おお素晴らしきかな聖ヨセフ *8 、さあお先に踊ってください!
『ラ・トリブーナ』1885年1月23日
訳者による後注
*1 Gabriele d'Annunzio (1863-1938) がローマで新聞記者として働いていたころに頻繁に用いた筆名のひとつ。
*2 Giovanni Sgambati (1841-1914) ピアニスト、作曲家。ローマ生まれ。幼少期からピアノ演奏と作曲を学ぶ。1849年トレーヴィへ移住、1860年ローマに戻ると一躍ピアニストとして有名になる。1862年、前年からローマで暮らしていたF. リストに出会い、認められ、師事。1866年、リスト《ダンテ交響曲》イタリア初演で、また同じくリスト《キリスト》第1部世界初演で指揮。同年、聖チェチーリア王立楽士院名誉会員。1869年、リストに同行してドイツへ行き、初めてR. ワーグナーの音楽に触れる。1876年、聖チェチーリア王立楽士院名誉会員に迎えられたワーグナーのために《タンホイザー》ピアノ編曲版を演奏し、また自作の歌曲数曲と2つの五重奏曲を披露して、認められる。ワーグナーからショット社 Schott を紹介され、以後この出版社から作品を出版していく。1877年、親友のE. ピネッリとともに聖チェチーリア音楽学校を公式に創設(非公式には1869年から貧しい学生のためのフリースクールとして自宅で活動していた)。1881年モスクワ音楽院から教授職に呼ばれるが辞退。
*3 Nadine Helbig (1847-1922) ロシアの公爵令嬢。ドイツ考古学研究所ローマ支部に所属していた考古学者ヴォルフガング・ヘルビッヒ Wolfgang Helbig (1839-1915) と結婚し、1865年からローマ在住。ピアノをはじめクララ・シューマンに、後にリストに師事。
*4 Lillie De Hegermann-Lindencrone (1844-1928) マサチューセッツ生まれ。はじめ歌手としてロンドンに学び、その後銀行家モールトン氏と結婚し、パリで生活する。1870年ごろ米国へ戻り、モールトン氏の死後、デンマーク外交官ヘーゲルマン=リンデンクローネと結婚し、ストックホルム、ローマ、パリ、ワシントン、ベルリンのデンマーク大使館を転々とする夫に同行する。ウンベルトI世やマルゲリータ・ディ・サヴォイアらといった王族の他にも、晩年のロッシーニ、リスト、ワーグナーらとも交流を持った。
*5 Eugenio Checchi (1838-1932) 新聞記者。『ファンフッラ・デル・ドメーニカ』で音楽時評を担当していた。そのような人物が音楽よりも髪型のことを気にしているというこのくだりの描写は諷刺めいている。
*6 ギリシャ神話における風の神アイオロスのこと。ルネサンス期の絵画には頬を膨らませた丸顔で登場する。
*7 19世紀フランスからの流行。舞踊会の締めくくりとして、まず1組が自由にステップやフィギュアを選びつつ先導し、続く各組がそれを模倣する。
*8 1月23日はヨセフとマリアの結婚を記念する日。