典拠:Barilla, Pratella. Musica futurista di Balilla Pratella. Milano, 10 novembre 1910.
訳者名:原口昇平(連絡先
最終更新日:2014年03月20日  ※引用の際には典拠、訳者名、URL、最終更新日を必ず明記
 
未来派音楽家宣言
 
 私は若者たちに語りかける。彼らだけが私の発言を聞くべきだろうし、彼らだけが私のことを理解できるだろう。
 あたりには古い生まれの者、よだれだらけの過去の亡霊、腫れあがった毒々しい隠花植物がいる。やつらに与える言葉や理念などない、代わりにただこう命じる。果てろ。
 私は若者たちに語りかける。若者たちは新しいこと、現在のもの、生きているものをどうしても渇望している。彼らは確信と情熱をもって、私にしたがい未来への道をたどるだろう。その道を、われらが勇敢なる兄弟たち、未来派の詩人や画家たちが、栄光とともにすでにわれわれの前に立って進んでいるのだ。彼らは暴力によって美しく、反乱によって大胆であり、鼓舞する精神によって輝いている。
 あれから一年になる。かつて、ピエトロ・マスカーニ、ジャーコモ・オレフィーチェ、グリエルモ・マッティオーリ、ロドルフォ・フェッラーリといった巨匠たちや、批評家のジャン・バッティスタ・ナッピによって構成されたある選考会が、他のあらゆる競争者のなかから、私の自由詩にもとづく未来派の音楽作品《La Sina d'Vargöun》を受賞作として発表した。またボローニャ人チンチンナート・バルッツィの遺産から、選考会公認の価値あるすぐれた作品の演奏に使われるべきものとして一万リラが与えられた。演奏は1909年12月にボローニャのテアトロ・コムナーレでなされ、大いなる熱狂や、軽蔑すべき愚かしい批評や、友人たちや見知らぬ人々の寛容な擁護や、賛辞や大量の敵を生み出す成果をあげた。
 こうして意気揚々とイタリア音楽界に入り、聴衆や出版社や批評家たちと触れ合いながら、私はきわめて冷静に、ある問題を見抜くことができたのだ。すなわちその問題とは知識人の凡庸さ、商業主義の卑しさであり、またイタリアの音楽を俗っぽい歌劇という唯一不動のかたちに押し込んでいる保守主義であった。こうしたもののせいで、他の諸国における未来への音楽の発展と比べてわれわれは完全に遅れをとっているのだ。
 実際ドイツでは、ワーグナーの崇高なる天才によって支配された革命的で栄光に満ちた時期のあとで、リヒャルト・シュトラウスが、過剰な管弦楽法を生き生きした芸術の形式にまで高めている。たとえ彼が複雑ではでな和声や巧みな音響効果をもちいながら貧弱さや商業主義、また自らの精神の凡庸さを隠すことができていないとしても、しかし彼は革新的な才覚をもって過去と闘い克服しようとつとめているのだ。
 フランスでは、音楽家というよりむしろ文学者のような深い洞察をもった芸術家であるクロード・ドビュッシーが、淡く繊細で青くいつも透明な和声の、静かで澄んだみずうみを泳いでいる。彼は、手段としての象徴主義や、新たな音の組織による音階を通じて聞かれる和声感覚から生まれた単調なポリフォニーをもちいてはいるが、それは依然として組織的であり、結果的に任意の限界でもあるので、したがって彼のテーマやリズムの偏った用法が貧弱であることや、観念的な展開がほとんど完全に欠如していることを、決して隠しきれてはいない。彼の楽曲の展開は、貧弱で短いテーマや単調でぼやけた拍節の原始的で幼稚な周期的反復によって成り立っている。彼は、自らのオペラの書式について、1600年に歌劇を生み出したフィレンツェのカメラータによる不動の理念に立ち戻りながらも、いまだに彼の祖国の芸術的歌劇を完全に刷新するまでにはいたっていない。それでも、他のあらゆるひとびと以上に彼は、たくましく過去と闘い、多くの点で過去を克服している。理想としてはそんなドビュッシーよりも強いけれども、しかし音楽的により下位にいるのがギュスターヴ・シャルパンティエである。
 イギリスでは、エドワード・エルガーが、古典的な交響曲の形式を拡張しようという精神をもって、同一主題を多様に変奏してたいへん豊富に展開させる手法を試みており、バランスよくわれわれの感性に適した音響効果を楽器にではなくむしろ互いの組み合わせに求めているのだが、そうすることで彼は過去を破壊することに協力しているのだ。
 ロシアでは、質素なムソルグスキーが、ニコライ・リムスキー=コルサコフの精神を通じて覚醒し、他民族から受け継いだ形式のなかに自民族の原始的な要素を取り入れ、また劇的現実と自由な和声を求めることで、伝統を棄て、忘れさせている。これにはアレクサンドル・グラズノフも着手しているが、〔彼の音楽は〕まだ原始的であり、純粋でバランスのとれた芸術観からはかけ離れている。
 フィンランドやスウェーデンでは、音楽的な要素と自民族の詩的な要素を通じて革新的な傾向が育まれており、そのことはシベリウスの作品によって裏付けられる。
 それではイタリアにおいてはどうか。学校教師や音楽学会や音楽学校が、若者たちや芸術を罠にかけているのだ。
 こうした無能の温床のなかでは、巨匠や教授たち、令名高い能なしどもが、伝統主義を生きながらえさせ、音楽の領域を広げようとするあらゆる努力に対抗しているのである。
 これはすなわち、自由で大胆なあらゆる傾向を抑圧し、締め上げてしまうものである。勢いの激しい知性を不断に壊死させていくものである。模倣と追従しかできない凡庸さの完全なる土台である。生まれつつある才能を傷つける油断ならない武器としての、過去の偉大なる音楽の栄光に由来する堕落である。すでに死んで時代遅れとなった文化による永遠の苦しみのなかでもがくばかりの、むなしい曲芸の研究に由来する限界である。
 音楽学校のなかで立ち往生している若い音楽の才能は、大出版社の保護を受ける歌劇場という魅力的なまぼろしに見とれている。そのほとんどが、理想と技術との基盤を欠いているせいで、悪い結果にたどりついてしまう。運よく上演される作品はきわめてわずかだというのに、大部分の者がはかない成功を買い取るために、あるいは親切な忍耐のために、金を支払っているのだ。
 成功しなかった歌劇の作曲家たちは、最後の避難所であるところの純音楽たる交響曲に迎え入れられる。彼らは、自分たちの教理にしたがって、合理性を欠き音楽的でない形式としての歌劇の終わりを予言する。彼らの一部は、自分たちがこのきわめて高貴で活力のある音楽ジャンルにおいても無能であることを露呈し、交響曲がイタリア生まれのものではないという伝統的な非難を強めてしまう。彼らの二重の挫折の原因は〔実は〕単一のものである。その原因は、本来無罪であるにも関わらず名誉を傷つけられた歌劇や交響曲の形式に求められるべきではなく、むしろ彼らの無能にあるのだ。
 作曲家たちは、成功していくなかで、あの堂々たるぺてんを利用する。そのぺてんとは「良質な音楽」と呼ばれるもので、かつての真正かつ偉大な音楽の贋作であり、自らの意志にしたがってだまされている聴衆に対し売り飛ばされる価値なき模造品なのである。
 しかし、大出版社の保護をあらゆる断念を通じて勝ち取ったごく少数の幸運な者たちは、そこで幻想と屈辱の二重のひもをかけられ、奴隷や、ことなかれ主義者や、自らを商品として売り渡した者たちの階級を代表している。
 商業的な大出版社は皇帝として君臨している。大出版社は、ジャコモ・プッチーニやウンベルト・ジョルダーノによる発育の止まった低俗な作品を乗り越えようのないお手本として示しながら、商売上の限界を歌劇の形式にあてがっている。
 出版社が詩人たちに金を支払うのはなぜか。それは詩人たちが、ルイジ・イッリーカというあのグロテスクな菓子店のレシピにしたがって、オペラ台本という名のあのにおうパイをつくりだして無理やり与えるために、時間と知性を浪費しているからである。
 出版社は、うまい具合に凡庸さを越えたいかなるオペラも採用しない。彼らは独占権をもって自らの商品を流布させては使い尽くし、反乱のおそるべき企てからなわばりを守っている。
 出版社は、聴衆の趣味に関する後見人の役割と特権とを引き受け、批評家と共謀し、涙と大雑把な感動のあいだで、われわれに特権的に強要された旋律とベル・カントや、もはや国民の胃袋には重苦しくたいして興奮させられもしないイタリア歌劇を、お手本やためになる訓戒として繰り返したたえている。
 唯一ピエトロ・マスカーニだけは、出版社の保護を受けているものの、芸術の伝統や出版社や、だまされ甘やかされた聴衆などに対して反抗する精神と力をもっている。彼は、イタリアにおける唯一初の模範的人格によって、恥ずべき出版社の独占や、批評家が金しだいで動くことをあばき、われわれが音楽における趣味人と商売人の専制君主体制から解放される時期を早めたのである。たいへんな天才をもって、ピエトロ・マスカーニは、いまだに伝統的な形式から抜け出るにはいたっていないにせよ、歌劇について和声の面でも叙情の面でも数々のまことに革新的な試みをなしてきた。
 約言すれば、私の告発してきた堕落と恥辱は、芸術や今日の慣習に関するイタリアの過去を正確に象徴している。つまり死んだ産業、墓場の礼賛、生命力の源の枯渇である。
 未来派は、直観と感性にもとづく生命の反抗であり、衝動的でじっとしていられない春である。未来派は、学識や個人や、また未来を傷つける過去を繰り返しては長引かせたり賛美したりする作品に対して容赦なき宣戦布告を行う。未来派は、行動や良心や思想について、道徳とは無関係な自由を勝ち取ることを公言する。芸術は公平無私であり、英雄的行為であり、安易な成功を侮蔑するものであることを、未来派は主張する。
 私は自由な大気と太陽の下に未来派の赤旗をひろげ、この燃えさかるシンボルのもとへ、愛と闘いのためのこころや、着想のための頭脳や、臆病風から逃れた顔つきを持つ若い作曲家たちをすべて呼び集めるのだ。そして伝統、疑念、日和見主義、虚栄心にいたるすべての小路から解放された気分の喜ばしさを私は叫ぶ。
 凡庸や無知にひとしい烙印たる巨匠の称号と縁を切った私は、未来派への熱狂的同意をここに宣言する。そして、若者たちや、勇敢な者たち、無謀な者たちに、私の決定的結論を差し出そう。
 
 結論
 
1. 音楽高校や音楽院、音楽の学会を見限るよう、また自由な研究を再生の唯一の手段として認識するよう、若い作曲家たちを説得すること。
2. 致命的なほど金で動くうえに無知である批評家連中を頑として侮蔑しながら彼らと闘うこと、また彼らの記事による有害な影響から聴衆を解放すること。この目的のために、音楽院の教授たちや堕落した聴衆の審美眼に決然と反対する独立した音楽雑誌を創設すること。
3. 選考手数料を同封して何らかのコンクールに応募するのをやめ、詐欺を拒否し、概してまぬけともうろくから構成される審査委員会の無能ぶりを白日のもとにさらすこと。
4. 商業的ないしは学術的な環境から離れ、それらを侮蔑し、ひとが芸術を売り渡しかねない豊富な報酬よりもむし謙虚な生活を好むこと。
5. 自分の音楽的感性を過去のあらゆる模倣や影響から解放すること。未来を向いたこころで感じ、うたうこと。人間的な、あるいは超人間的なあらゆる現在の現象を通じて、自然からインスピレーションと美学を引き出すこと。近代的生活のさまざまな局面において、また自然との内奥に隠された無限の関係において、絶えず更新される人間という象徴を称賛すること。
6. 美辞麗句にすぎず何の役にも立たない「良質の」音楽という迷信を破壊し、これまでにつくられてきた音楽とは絶対的に異なる未来派音楽の唯一の理念を示すこと。かようにしてイタリアにおいて未来派音楽の美的センスを育てるとともに、「古典へ帰ろう」という憎々しく愚かで卑怯な文句を打ち出している教条主義的で学術的で退屈きわまる価値観を破壊すること。
7. 歌手の王国は終わるべきであり、歌劇芸術における歌手の重要性は楽団の楽器ひとつにひとしいと公言すること。
8. 定型詩の代わりに自由詩を用いつつ「オペラ台本」という名称と意味を「音楽のための劇的詩篇または悲劇」という名称と意味に変更すること。
9. 歴史を再現する作品や伝統的な舞台装置と断固として闘うこと。また同時代の衣装がこうむっている侮蔑について、愚かなものだと述べること。
10. トスティやコスタなどによるロマンツァ、へどの出そうなナポリのカンツォーネ、宗教曲と闘うこと。宗教曲は信仰の衰退によりもう存在理由を持たないにも関わらず、音楽院の無能な院長や未熟な司祭によって排他的に独占されている。
11. 革新的な巨匠の出現を妨げる古い作品の再発掘に対し、いっそう増大する敵意を、大衆のなかに喚起すること。また音楽のなかの独創的または革命的と思われるものはすべて支持し、また賛美し、死にかかったやつらや日和見主義者どもの侮辱や皮肉から名誉を守ること。
 
 間もなく過去主義者の反動が全力での激高をともなって私の背中に押し寄せてくるだろう。私は晴れ晴れと微笑みながらそれを無視する。私は過去を超えて、未来派の旗の周りに大声で若い音楽家たちを呼び集めるのだ。未来派は、詩人マリネッティによりパリの『フィガロ』紙上に発表されたもので、時のそう経たないうちに、世界最大の知性の中心地を征服してしまったのだ。
 
 ミラノ、1910年11月10日 バリッラ・プラテッラ