典拠:Casella, Alfredo. I segreti della Giara. Firenze: Sansoni, 1941: 281-282
訳者名:原口昇平(連絡先)
最終更新日:2011年12月30日 ※引用の際には典拠、訳者名、URL、最終更新日を必ず明記
(『甕の秘密』よりレスピーギの死に関する記述) アルフレード・カゼッラ
〔1936年〕4月18日朝、「カッミルッチャ」紙から一本の電話があり、オットリーノ・レスピーギが夜のうちに亡くなったことをわれわれは知った。われわれはただちに彼のもとへ赴き、なきがらと対面した。なきがらはまだ彼の仕事場に横たわっていた。彼の顔にとどまっていた苦しげな表情、ふつうならば誰もが臨終によって与えられるはずの安堵も平静も欠いた表情が私を打ちのめした。晩年のレスピーギが私や私の芸術に対して明らかに敵対する態度をとっており、またいつも誠実ではなく親しみのもてないやりかたで、私ばかりでなく私の弟子までをも害そうとしていたが、それでも私はこう言いうる。彼のなきがらを前にして、かくも幸運で精力的な存在があまりにも早くへし折られてしまったのを見ながら、私の抱いたのはただ許しの感情であり、またきわめて率直な悲しみであった。
私は「国民音楽協会」の創立されたあの遥かな時代に一度ならず思いを馳せた。私と同年代の者たちが凡人どもに対抗して知の比類なき前線を形作っていたあのころ、兄弟のような意識がわれわれみなをひとつの壮大な魂の集合体へとまとめていた。
彼のきわめて盛大な(当然受けるべき)成功のかたわらで、レスピーギの作品に対する辛らつな批評が消えたことはなかった。レスピーギの芸術家としての個性をまったく望ましいほど平静に評価する機会は、おそらくまだ到来していない。たた、たとえ彼の走りぬけた道がわれわれふたりのあいだに致命的にもあの距離を生み出さざるをえなかったのだとはいえ、それでも私の思うに、レスピーギの芸術家としての立ち位置を正しく評価しようとするためには、何よりもまず、彼の出発点がわれわれの世代みなと同じものであったことを忘れてはならない。その出発点とは、すでに乗り越えられ無化されたが――われわれの先行世代の芸術にみられたヴェリズモという美的趣味から、できるだけすみやかに脱却しなければならなかったことだ。
ヴェリズモに抗うために唯一ありうべき方法は、印象主義から生まれたヨーロッパ前衛の立場にもとづくという方法であった。そしてこの点において、レスピーギはわれわれみなとともにあった。しかしあるとき、レスピーギは、印象主義に対する全面的な反抗へ通じるはずの、そして実際にそこへ通じた道を、前進する勇気を失ってしまった。この本質的に建築的かつ構成的な性質の新たな苦しい仕事のさなか、レスピーギはひとと距離をとることになった。一方では、彼は色彩や「写実」の技法に関してすぐれた天分をもっていたが、構成の作り手としての資質は同じくらいに目立つほどではなく、形式はいつも彼の最大の弱点であった。他方では、彼のなかに二つの本性があった。第一の本性は、モダニズムの方向と音色の混成に関する創意に対してとくに真摯に向けられていた感性のことである。その感性は、《セミラーマ》のような若いころの作品においてすでに発揮されており、もしも彼が自らのうちに第二の本性をもっていなかったらばはるか彼方へ彼を連れて行くことができたはずだった。第二の本性は、残念ながら第一の本性よりも優位にあった。すなわち穏やかに生きることに対する愛、精神的怠惰である。それこそが、成功によって得た座に彼を安住させてしまい、フランス=ロシア的な印象主義を乗り越えさせないままにしてしまったのだ。かかる印象主義は、彼の出発点であり、彼の師マルトゥッチから継承されたいくらかドイツ風のロマン主義的気質とともに残りつづけた。レスピーギはその気質から自らを――自らの芸術の基盤を解放する力を持たなかった。だがこのような所見は――おそらくはレスピーギという人物の歴史的意義を減少させるものではありえても――管弦楽曲の作曲家としての、また音色の使い方に秀でた作曲家としての彼の最高の徳性を何ら減じることはないし、それに彼の芸術家としての人格の道徳的な側面を傷つけることもまったくない。彼の人格は、自らの芸術を深く愛し、不言実行という秀でた長所を持った人間のものだった。