XXXI
生きることを生きつづけたひとりの哲学者が 前へ身を投げ出してから十年後を歩いている   ああ花の名前をひとつも覚えられない けれどすべてひらきつづけている くらがりからくらがりへ、ひかりからひかりへ歩く    
XXXII
  ここより先に進むものはなく ここから帰るものもいない 手を無数に記憶する壁   複数の平行線の交差する時刻 溶け込んだ眼球の南極点に立つ 「ここが地平線だ、ここで跳べ」    
XXXIII
さようならと言いながら交わした初めての握手を さようならと言いながら歩いた五月に喪服を着せて さようならと言いながら笑った手術台の上から さようならと言いながら走ったミシンと傘を焼くために    
XXXIV
夜警が夢の石畳をめくると ひとひらずつ街は眠るように散り行き 三月 他に記銘もなく 「神に感謝」とだけ書かれた墓石を撮影した これから桜ばかりが目覚める また一歩前にこの身を問う    
XXXV
顔にかかる雨へ 疾走する右手のひらいた朝日 墜落する左手の遺した死亡時刻 まぶたを閉じなければ見つめられない いつかあげた服のような青空が 濡れたからだにはりついているのを 「そこから海も/遠くはなかった」 帰っていくために ハンドルに体重をかけて 飛ぶように前傾する、誰もが    
XXXVI
 子どもたちは喚声をあげながら、ダンボールを引きず って土手のうえへとのぼっていく。たどりつくと、四人 ともふたたびダンボールに両足で勢いをつけて飛び乗る のだ。すべりゆく時間。喚声、飽くことなく。 「元気ねえ」  まぶしそうに手をかざした父の背中は小さく、灰色に くぐもっている。こぼれだした三月のひかりもまだそこ までは届いていなかった。  一歩踏み出した父に倣って、私もまた降りていく。子 どもたちのようにではなく、父を気遣えるようにやわら かく追い越しながら。斜面の芝生が床ずれのように禿げ て、ところどころに地肌を露出させている。 「こんなところで転んで、腹ん裂けたら、笑い話にもな らん」  笑いつつ、支えようとしてのばした手に、しかし父は つかまることなく、まなざしは前へ投げかけたまま。私 もそれ以上手をのばしてゆくことができずに。  ひかりのなかで父は。すべての歩みは手術傷をかばい ながらの問いかけ、生き延びたいのち、譲り受けたいの ち、ひとりの子どもが亡くなって、父は移植を受けられ たのだ。すべりゆくいのち、手をのばしてゆくことがで きずに私は。  下までたどりついて、遊水地をながめながら歩いた。 今は水位がいちばん低くなっている。釣り竿を傾けてい る老いた後姿たち。父もまたあそこに座りたがっていた けれど。  「どこから水が入り込んでるんだろう」  「ほれ、そこさん見てみい」父の指先にある水門。 「あそこからたい」  もうずっと渇いているようだった。「水の入り込むん は、数年にいっぺんだろうと思うけども」それで思い出 した。「毎日一ガロン飲まなきゃいけないんだっけ」 「ああ」「水飲めないのもつらいけれど、飲み過ぎなき ゃならないっていうのもつらいね」  黙ったまま。いつの間にか子どもたちの声はしなくな っている。釣り人たちの魚籠には一匹も入っていないよ うだった。魚はいるのだろうか。「いなくても糸、垂ら すのかも」しかしやはり答えることなく、父はただ見つ めていた。  帰りの車の中で、ラジオから歌がにじみだしていた。 旋律は知っているけれど、歌詞に覚えがない。「英語か。 スコットランド民謡だろか」「わかった、『仰げば尊し』 だ」それでも、肌になじまないことば、子どもたちの卒 業していく季節の。そして歌はあふれ、とめどもなくこ ぼれ、瞳を閉じずにいようとする努力もむなしく、運転 する父の姿をかすませていった。    
XXXVII
撃たれた痕から花々はこぼれた 手術は困難を極め 待合室に腰かけてまどろむ匿名の群影 もう誰も京都丸善に 檸檬を置き去りにすることができない そう嘆きながら見知らぬ者同士で 代わりに高村夫妻ごっこをした 「そんなにもあなたは」 待っていたのだと    
XXXVIII
フーガ 交差点に流れる 波立つ歌々を摘むようにして また青空の一頁をめくる 「死亡事故多発地域」という速度記号 三小節先、いやもっと先まで目をこらして 終止線からはみだし 信号が変わるのを待つ 弔いの黒い旗をそれぞれにかかげて    
XXXIX
はじめからいなかった 三月の正面からの強い突風のなかで その高さは思い出せるのに 起ち上がれない歌詞のようにわたしは 白い部屋で 明け方に目覚めて たとえばまだ明けきらぬ暗闇に置かれた 一個の青いオレンジに手を伸ばすどろぼうが 立ち去ったあとから流れ続け 鳥ののどをやさしく嗄らしていくだろう旋律を 繰り返した うたには歌詞が はじめからなかった    
XL
かつて子どもたちは川沿いに並んで きそって問いかけるように小石を投げた あさっての方向へ しあさっての方向へ 誰も受け取めることができなかった 答えのないものはどれも はてしなく水面を切っていき 海の向こうの国の子どもを驚かせ 地球を何周もまわって いつか投げた子の背中へそれぞれ届いた おとなになりきれぬ道をとぼとぼ帰っていると ものすごい力がうしろから押してくるのを感じた そして ネクタイを外していっせいに全速力で走り出した