XXI
幼いころ履いていた靴に
別の名前が書かれていた
忘れてきてもいいように と
母は
誰に届けようとして
XXII
「宛名を書いた
古い世界についてのもつれた掌編に
彼の斬首ののちに着せられた旗の結び目に
鳥たちのやさしく囚われている最後の地平線に
宛名を書いた」
XXIII
誰に届けようとして
子どもは送り出されたのだろう
おつかいのふくろを手に商店へ行き
大根とみそとしょうゆを求めたあとで
いつもまっすぐ帰っていったのに
XXIV
けれど配達がなされて
どこか別の時刻にたどりついてしまったのだとしても
封は必ず開かれる その過ちが
すべての焦点であることを知ったときには
あなたはすでに読まれてしまっていた
XXV
「お願いだからもう読んでいかないで
わたしの名前はそっとあげる
底の抜けたうつわを逆さに振っても何も出てこない
けれど穴開きのままでそこにあるように
わたしの名前を満たす水はないの」
XXVI
すべて始めから届けられていた
XXVII
「手のひらに汲んできたよ
この水を誰も知らない
すぐに渇いてしまうのだとしても
飲むことをやめるわけにはいかない
この水を」
XXVIII
投げかけられたひとつの
よわよわしいものの名前すらおぼえずに
散りゆく
すべて
その灰を受け取って
また
手のひらからくだける
四音下降するフリギア
「花の響きに似ている
「「砂漠には咲かない
「「「わたしは複数の残響か
「「「「あなたが
初めて出会った挨拶として
「さようなら
といいながら差し延べた手
いまここから
ふたたび握りかえそうとして
下導音を踏みしめ
何度目かの地上に帰る
「「「わたしは複数の残響か
XXIX
カメラを手に午後四時、外へ出た。動坂を降りずに団
子坂へ抜ける道を歩いた。このあたりの街並は背が高く、
この時間帯になると小さな路地にはもう直射日光が落ち
ない。刻々と太陽は高度を下げ、数分ごとに露光は変わ
る。フラッシュは使わないと決めているので、急いだ、
撮るべきものを焦らずに探しながら、急いだ。
視界のなかにあるものの、色づきよりもむしろ陰影を
気にしていた。入れているフィルムはイルフォードのモ
ノクロームだった。アスファルトを濡らしている微細な
ニュアンスの瀝青や、夕焼けの底に沈殿してゆく橙は、
このフィルムには残らない。差し込んだひかりと、照ら
されなかった影とが相対して、縄跳びをしている子ども
のからだに斜めに線を切り込んでいる。その線を撮ろう
としていた。
あなたはくらやみばかり見つめている。
かつてそう言われたことがあった。近頃はひかりのほ
うを目指して歩いていくようになった。いや、ひかりと
やみのあいだ、影のつくる輪郭線ばかりを、いまは見つ
めている。そこには、ひかりもやみも一緒になって、存
在のうえを走っている。
カメラを構えようとして、けれど、すぐに手を下ろし
た。
坂を下り、右に曲がって、不忍通を歩き始めた。ほぼ
完全に日陰に覆われていた。仕事を終えて、地下鉄の階
段をやっとのことで昇ってきたひとびとの顔にも、もう
太陽は張り付かない。夜が来る。かつて飽くことなく見
つめていたくらやみが。
くらやみはやさしい。けれど夜の輪郭をかたどってい
るのはいつも昼のひかり。ひかりがなくなったらこの世
に夜という概念もなくなるだろう。穏やかな、まなざし
の向けられない静寂のなかで、生きものの眼は衰え、ま
ぶたは溶け流れてしまうだろう。そうして、音楽ばかり
を聴くだろう。
カメラを持つようになって、音楽を聴くことが以前よ
り少なくなった。カメラを持つようになって、街なかで
おもしろいものを見つけられるようになった。カメラを、
おいそれとはひとに向けられないのだということがあら
ためてわかった。見つめることは恥ずかしいこと。すこ
し失礼なこと。ほんとうに愛するものは背中からしか撮
れないこと。
何ひとつ撮らないまま一日のシャッターは下りた。街
を切り分けて歩いたあとの線が、脳裏にはっきりと焼き
付けられていた。
XXX
「帰る」
砂をすくう手つきでさよならをして
それから二度と会うことはなかった
靴には死んだ幼なじみの名前があった
渇いていたので
入り口にある蛇口からまた水を飲んだ