典拠:Cremonesi, Lorenzo. "Sulla strada della devastazione." Su 19 gennaio 2009 di Corriere della Sera .
訳者名:原口昇平(連絡先
最終更新日:2009年1月20日
 
荒廃した路上で
 

 ガザ地区は北部から南部まで荒廃している。路上で生き残ったひとびとは言う、「家はどこだ?」 戦争は浪費家だ、とくに墓場にかけては。
 
  ロレンツォ・クレモネージ記者
  2009年1月19日 ベイト・ラヒーヤ(ガザ北部)発 ルポルタージュ
  
 アタトラー地区の小高い丘からはイスラエル側との境界線の一部を見下ろすことができる。海抜40メートルほどあるこの丘はこのあたりでもっとも高い場所とされる。ここはガザ地区の最北部だ。イスラエル側のアシュケロン発電所の煙突がライフル銃の射程内にある。すぐそこにスデロットのビル群がある。キブツの果樹園であるヤド・モルデカイとナティブ・ハサラーもよく見える。ハマスの精鋭部隊が多くのミサイルを発射するのもここからだ。また地元のパレスチナ人記者によれば、この下では地下道が縦横無尽に迷宮をなしていて、軍需品の倉庫が隠されており、「敵なるシオニスト」との分の悪い闘争で最初の防護施設なのだという。そしてここには最近空爆と戦車砲によってきわめて激しい攻撃が浴びせられてきた。
 
 われわれは昨朝遅くにハーン・ユーニスからここへ到着した。イスラエル側の一方的停戦によって攻撃が止んでから8時間後のことである。ガザ市内に入る直前、海岸沿いの道のまわりは、広範囲にわたっておぞましいほどに破壊されていた。15日前からイスラエル兵たちがガザ地区を分断していたのだが、彼らの臨時の砲台に面した住宅地はどこも破壊された。海に近いそこは、90年代初頭以後につくられた別荘が以前はいくつもあったのだが、真っ平らになるほど、灰燼に帰してしまった。しかしここの荒廃ぶりも、北部でアタトラー地区の丘からベイト・ラヒーヤ周辺を見渡したときに目にしたものと比べればなんでもないのだ。ベイト・ラヒーヤ周辺では爆撃の猛威がずっと強烈で、繰り返し激しく降り注ぎ、真っ平らになるまで甚大な被害を生み、恐怖をもたらした。住民たちは被害を確認するために少しずつ戻ってきているが、しかしあたりが暗くなると急いで立ち去ってしまって、誰もいなくなる。住民たちは新たな攻撃を恐れているのだ。こうしたことからすぐに思い出されるのは、2006年夏、イスラエルによるレバノン侵攻でビント・ジェベルやカナの村が焼き払われた光景だ。しかしあのときには、被害はリタニ川南部の広大な一帯に分散していた。
 
 それと異なり、今回ここでは狭い範囲に被害が集中した。装甲車が爆風に巻き込まれなかったものをめちゃくちゃにした。地元の小さな墓地には装甲車のキャタピラに踏み荒らされたあとが残っている。装甲車は墓所の石を打ち砕き、巨人の耕した畑のようになるまで地面を混ぜ返した。道端には死んだロバ、衣類、廃墟となった住宅にぶつかってひしゃげた自動車、餌の残りをついばむニワトリ、汚水の臭い。そして疲れ果てたひとびとが、電気のケーブルが見当たればどこでも、戦車にぺしゃんこにされた自動車や、ほこりまみれの赤ん坊のおもちゃがないかどうか探している。赤十字の医師たちは、国連のパレスチナ人作業員たちから証拠となるものを集め、昨日だけでもこの区画の瓦礫のしたから95名の遺体を発見したと主張している。しかし12月27日以来パレスチナ人の死者の総計については、情報源によって1,200人から1,300人以上といった具合にズレがある。イスラエル・パレスチナ間の長い闘争の歴史は、最新の情報としてもたらされた犠牲者の数は信用しがたいという教訓を示している。
 
 農家の37歳男性アベド・サラー・アッタールさんは、節約して貯めた財産を兵士たちにみな略奪されたといって嘆いている。「地上戦が始まる前、イスラエルから避難命令を受けたとき、マットレスの裏から取り出すだけの時間もありませんでした。やつらはヘブライ語で皮肉な調子で、いっぱい隠しておいたなって書いたメモを残していきました」と涙ながらに言った。彼の60歳の従兄ハリル・ユセフ・アッタールさんは、イスラエル兵の部隊に大金を盗まれたことに抗議し、こう付け加えた。「私の85歳の母さんは殺されてしまった。寝たきりで、イスラエルから命令が来たときに避難するのは嫌だといった。最初の爆撃のときから動かずに残っていたんだ。」彼のいちご畑とレモン畑はめちゃくちゃにされた。この地区の学校は爆弾のせいでほとんど黒い骨組みだけになってしまった。そこからはまだ黒い煙が上がっている。その近くで、数名のハマスの活動家たちが3人の戦闘員の遺体を掘り出している。遺体は自分たちの塹壕のなかで装甲車に踏みつぶされ、そのあと瓦礫に埋もれてしまったのだ。あたりは柵で囲われている。誰も武装しておらず、誰も軍服を着ていない。活動家たちはトランシーバを使って連絡をとりあい、中国製のバイクであちこち動き回っている(ちょうどレバノンのヒズボラがそうだった)。そして戦闘機は飛んでいないのに、まだ巡回が続けられているんじゃないかと思って空を神経質そうに見上げる。だがすぐにわれわれから離れていく。彼らは外国から来た記者たちにこのありさまを見られたくないのだ。