典拠:Cremonesi, Lorenzo. "Sotto il fuoco dei mitra israeliani nella terra di nessuno della Striscia." Su 17 gennaio 2009 di Corriere della Sera .
訳者名:原口昇平(連絡先
最終更新日:2009年1月18日
 
ガザ地区の無人地帯、イスラエル兵の機銃掃射
 
 
  ロレンツォ・クレモネージ記者
  2009年1月17日 ネツァリム(ガザ地区)発 ルポルタージュ
 
 ここガザ地区のなかには、2週間前からイスラエル側によってパレスチナ人の通行が遮断されている地域がある。この地域の幅はおよそ1キロメートル弱。長さはイスラエル側との境界線から海岸までおよそ10キロメートルほどにもわたり、さらにネツァリムの古いユダヤ人入植地の廃墟に接している。2005年9月10日、ガザ地区におけるユダヤ人入植地撤去を完了させるために、イスラエル側は最後に残ったこのネツァリムの入植者を強制退去させた。ガザ地区は二つに分断された。〔ここの通行に〕決まりごとはない。あるときには問題なく通れるが、またあるときには発砲されるのだ。
 
 昨日われわれはこの地域の横断を試みた。だが成功しなかった。午後3時ごろ、パレスチナ人の運転手や通訳を連れて出発し、ハーン・ユーニスからガザ市中心部を目指した。20キロメートルあまりだ。ここでは新聞記者はイスラエル当局から歓迎されない。それはわかっている。とはいえ出発の前に、われわれはイスラエル政府軍報道局長官ダニエル・シーマンに電話で連絡しておいた。その軍報道局はアヴィタルにある。返事はたいへんきっぱりしていた。「わたしたちには、あなたがたの身の安全はまったく保障できませんよ。戦闘地域なんです。まあしかし、こちらから司令部に知らせておきました。現場の部隊には司令部から通達してあります。移動手段、コース、時刻を言ってください。」その通りにした。われわれは深紅色をしたおんぼろのメルセデスに乗っている。新聞社のマークがあっても意味がないといわれた。われわれは、ネツァリムの東に接する地域、サラハッディーンまでのコースを彼らに伝えた。数分も経たないうちに、ディル・エル・バラー及びアル・ブレイジ難民キャンプをあとにした。道は空いている。周囲の家は爆弾を浴びて荒廃している。ときおりわれわれの頭上を戦車の砲弾がかすめ、ガザ市のほうへ消えていく。グリュイエルチーズのような建物の屋根にとりつけられたプラスチック・タンクが燃えている。あとで知ったのだが、つい近頃このあたりである一家が全滅したらしい。母親と、7歳から12歳までの5人の子どもたちだった。
 
 不意に、われわれの乗った車両は、土砂でできたバリケードに阻まれた。おそらく200メートルほどの幅で広がっている。右手80メートルあまり離れたところにイスラエル兵たちがいた。カムフラージュのために木の葉をまとい、土手のうえに潜んでいる。われわれはガザにもう4日間いるが、はじめてイスラエル兵をこの目で見た。われわれは車を降りて、ヘブライ語と英語で、大声で言った。「イトナイーム、イトナイーム・イタルキム。記者です、イタリアの新聞社です。」一呼吸おいて、その返事としてイスラエル兵たちは照準も合わせずに機銃掃射してきた。車のドアが激しい攻撃を浴びて、サイドガラスがリアウィンドウまで粉々になった。上部から弾が3発撃ち込まれ、座席やトランクを貫通した。何発か頭部や胸部の数センチ先をかすめた。それからまた10〜15発ほど車両に打ち込まれた。われわれは地面に伏せ、おののき、肝をつぶし、何度も叫び声をあげた。運転手と通訳、ともに25歳の彼らは、〔現地の部隊に連絡したと言われていたのに、こんな目に遭ったので〕だまされたと思ったのかこう言った。「いつも言われてたよ、イスラエル人なんか信じちゃいけないって!」機銃掃射は続いた。そのうちあたりいったいに大砲の発射音が響きはじめた。イスラエルとの境界線沿いから、戦車が海岸沿いの住宅地を砲撃しているのだ。住宅が2軒、炎に包まれた。
 
 われわれはイスラエル兵たちのいる土手から離れたところで何度もさきほどのように大声で説明しようとしたが、そのたびに彼らは機銃掃射をしかけてきた。われわれの周り数メートルは蜂の巣になった。メルセデスのエンジンはまだかかっていたが、道のなかばに置き去りにしたままだった。それから奇妙なことが起こった。アヴィタルの報道局から電話がかかってきて、車に乗ってハーン・ユーニスに帰ったほうがいいと言うのだ。「部隊には知らせた、あなたがたはもう攻撃を受けないよ」と断言してきた。それでわれわれはメルセデスに素早く乗り込んでターンさせたのだが、5秒ほど経つとまた、ずっと激しい攻撃を受けた。車両は屋根やボンネットまでやられた。われわれはまた地面に伏せた。アヴィタルの軍報道局に電話をかけなおした。「わたしにはわからない。前線警邏隊の上官から命令が届いているはずなんだが」と不安げにいわれた。お役所仕事の悪夢だ。だが、パレスチナ人たちの恐れていることを一瞬で理解することができた。つまり兵士に出くわすことだ。どう見ても自分は市民だから、彼らも自分に悪さはしない、狙われたりしない――そう思っても、兵士は小銃を持ってひたすらに撃ってくるのだ。とうとう午後5時になってあたりが暗くなりはじめたころ、アヴィタルの軍報道局は電話でわれわれに指示を送ってきた。上着を脱いではためかせろという。「そうすればあちらも、移動してもいいという合図を送ってくるでしょう。」かくしてその合図を受け、ハーン・ユーニスまでの道のりを急いだ。軍報道局からまた電話がかかってきて、われわれの身に起こったことについて確認を受けた。パレスチナ人難民キャンプに戻るとわれわれは英雄扱いされた。「シャハフィ・シャヒード(職に殉じる新聞記者)!」と難民たちはほほえみながら言った。自分たちの体験していることを、西洋人が命がけで体験したというわけだ。