原典:Cremonesi, Lorenzo. "Un piatto di minestra per gli sfollati" Su 15 gennaio 2009 di Corriere della Sera
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訳者名:原口昇平(連絡先)
最終更新日:2009年1月16日
避難民たちの暮らし
ロレンツォ・クレモネージ記者
2009年1月15日 ハーン・ユーニス(ガザ地区)発 ルポルタージュ
ここガザ地区の中心部でひとびとの話をよく聞いたところ、最大の懸念は、爆撃よりもガザ地区への出入禁止なのだという。この禁止のせいで、失業や孤立感、さらには青空のもとで巨大な監獄に入れられ苦しんでいるという気持ちが生まれている。ハマスはイスラエルと闘って殉教することを称揚しており、そんなポスターをいたるところの壁に貼り、「聖戦」を喧伝している。しかしそんな「聖戦」に加わらないひとびとまで未来に対して絶望しているのだ。
昨日、夜明けから間もなくいつもの爆撃が始まった。とくにエジプトとの国境付近とネゲヴ砂漠中部では激烈なものだった。夕方から夜にかけて、またもや爆撃があった。翌朝午前8時ごろ、救急車がナセル病院に45歳くらいの男性の遺体を運び込んだ。ラファ地区に打ち込まれたイスラエルのミサイルにやられたのだ。付近を通行していた少年がこの攻撃のせいで両足を切断された。空からの轟音がしつこくつづいている。子どもたちは空からのかくれんぼに興じている。しかし大人たちは、ジェット・エンジンの轟音が聞こえるとまず空を見上げる。その音はラファでは爆撃の前触れだ。サイレンを鳴らして救急車が何台も走り回っている。救急車はエジプト国境から北部まで最長で20キロあまりも走る。せっかく点滴器を運んできても、イスラエルの許可なくしてガザの市街区のほうへ進むことはできない。すなわち、この「絶望の地帯」は分断されているのだ。たとえイスラエル兵たちが〔地上に〕見当たらず、居住区の中心から遠く離れたところにいたとしてもだ。
しかし、戦闘に慣れてしまったような〔平常の〕光景も見られる。正午ごろ、大部分の商店が開き、理髪店や銀行が機能しはじめた。果物や野菜の行商人たちが歩き回っている。イスラエルや一部の外国の新聞が報道したような「地雷トラップ」はかけらも見当たらない。夜、われわれは真っ暗闇のなかで小一時間路上にいたが、イスラエル人側にとって障害となるようなものを見つけることはほとんどできなかった。ガザには、小路、バルコニー、バラック、むき出しの排水溝、市場、難民キャンプと村落と街区がひしめきあっている。ゲリラ戦のためにわざとこしらえたかのような、人口過密の巨大な迷宮だ。ここではハマスの活動家たちも地雷を敷設できない、もしも敷設してしまえば、同胞たるひとびとから被害者を出してしまうはめになるからだ。仮にイスラエル人側が知性にしたがっていたならば、爆撃するたびにパレスチナの女性や子どもまで殺したりはしなかったはずだろうに。
異常なのは、イスラエル側近くにある住居を棄ててきた大勢の避難民をとりまく状況だ。その総計は把握されていない。国連職員たちは少なくとも10万人以上と言っている。ハーン・ユーニス北部の地区クァラーラにあるUNRWAの学校には、12月27日以来1,500人が集まってきた。「すでに最初の爆撃の際から、イスラエル人側は、ただちにこちらの住居を離れるように警告する内容を通信で伝えてきていました。それで私と5人の子どもたちは出ていきました。でも避難のために割かれた時間はとても短かった。私の叔父は、急いで移動しなかったので、爆撃を受けて死んでしまいました。」25歳の女性、マジュリン・アブ・ムディフはそう語った。彼女は机のなくなった学校の床に大きなカーペットを敷いて生活するはめになった。
市民たちは居心地の悪さに慣れてしまっている。そして絶対的な貧困に苦しめられている。しかし家族や部族はいつも通り団結している。寝床や一回分の食事を提供してくれる親戚がひとりはいるのだ。「この危機もやがて過ぎ去るでしょう。これまでよりもっと激しい攻撃がありましたから。まあ大きく見ればたいした違いはありませんが。」42歳の技師アシュマド・シャワンはこう語る。彼は1990年代半ばから妻とともに造営局で働いてきた。彼の言葉からは、彼がガザのことをどれだけ考えているかよくわかる。彼は爆撃よりも、ガザ地区への出入禁止のほうが重大なのだという。「われわれの状態が悪化したのは12月27日からではありません。むしろ2007年1月からなんです。つまり、イスラエルがガザに通じる道を封鎖したときからです。」彼はたてつづけに話していく。「はじめ、イスラエルは1日当たり4千トンのセメントの輸送を認めていました。2年間はその量が届いていました。これは鉄道敷設のためのものです。しかしその後、1日当たり1千トンから、2ヵ月当たり8千トンまでに減りました。建築業はストップしました。5万人以上の作業員たちが失業し、小規模の工務店はつぶれました。物資供給を封鎖されたので悪い状況はどんどん拡大していきました。他にも、はじめ1日当たり10万リッターのガソリンが入ってきていたのですが、今では1万リッターです。電気やガスも同じありさまです。われわれの社会はまるごと監獄にぶちこまれてきたんですよ。ハマスを強化するなんてできっこありませんよ。社会不安と過激派はセットでふくれあがっています。」
昨晩、ハーン・ユーニスでは、電気の供給が二度中断された。平常に戻るのに3時間弱かかった。われわれのいる部屋の窓の下、暗闇につつまれた鉛のような道路で、誰かがマフムード・ダルウィーシュ(パレスチナの代表的詩人、1941-2008)の詩の一節を歌っていた。「泣いていた者のことをオリーヴの木が忘れずにいるなら、オイルは涙に変わるだろう。」