原典:AA. VV., "Manifesto di musicisti italiani per la tradizione dell'arte romantica dell'Ottocento", pubblicato su il Popolo d'Italia, Stampa e Corriere della Sera, 17 dicembre 1932.
日本語訳:原口昇平(連絡先
最終更新日:2014年9月30日  ※引用の際 典拠、訳者名、URL、最終更新日を必ず明記
 

 訳注: カゼッラ、マリピエロはもちろん、アルファーノ、カステルヌオーヴォ=テデスコまでもが署名していないことに注意。

 


19世紀ロマン主義芸術の伝統を擁護するイタリア人音楽家たちの宣言(1932年12月)
  
オットリーノ・レスピーギ、ジュゼッペ・ムレ、イルデブランド・ピッツェッティ、リッカルド・ザンドナーイ、アルベルト・ガスコ、アルチェーオ・トーニ、リッカルド・ピック=マンジャガッリ、ジェンナーロ・ナーポリ、グイド・グエッリーニ、グイド・ズッフェッラート



 ここに署名した音楽家たちは、以下の声明文をもって、戦闘的または反抗的態度をとってうぬぼれたり思い上がったりしているわけではない。確かに意図するにせよしないにせよそういう態度はしばしば成果を挙げるものだ。しかしそうした企ては今日のイタリアにおける状況や風潮に適さない。他方で、何らかの美学的目的のために派閥や徒党を組むことや、媚びあうばかりの芸術家の協同組合を設立することや、前衛と呼ばれる小隊やその攻略対象となる塹壕に入ることは、どれもここに署名した音楽家たちの習慣にそぐわない。
 しかしながら、よき意志とよき信条を持つ者たちのあいだには、現実の接点および共通の利害があるはずであって、また実際にある。ここに署名した音楽家たちにとって、この国の芸術の行く末は関心のないことではない。そのことを鑑みたうえで、個々の行動方針や芸術観に関してなおも個々人の自由を最大限に保持しながら、一刻も早く力を合わせて共同の信条を表明する必要があった。時の裁きによって当然の結果として過誤が嫌悪され真理が称揚されるのをただ待っているばかりなら、いまの時代にふさわしくない受け身の態度に自ら甘んじることになる。
 さまざまな芸術的特効薬をばかにうるさく賛美するひとびとがいる。その特効薬はイタリア音楽の諸々の病を治すかもしれないというのだ。しかしその賛美はいまや強まりすぎているうえにあふれかえりすぎている。私たちの一致した姿勢としては、そのばか騒ぎを終わらせるためにあえて介入しようとはしないが、その騒ぎはもはや祖国愛と生々しい感情を欠いていると主張しておきたい。
 付け加えるまでもないが、芸術的革命のもっとも大胆な企ては、〔具体的な成果を挙げる前から〕大きな信用や期待を集めはしない。伝統的規範を打ち壊ねばならなかったあらゆる芸術的信念は、これまでずっと公に提示されると同時に実践されてきた。
 私たちの世界は、いわば、未来を先取ろうとしてよく考えられずに連発された諸観念にとりかこまれてしまった。そのスローガンは、実のところは、やっきになって、芸術の古い観念性の打破を目指していたというのに。
 音楽の領域においては、他の領域にもまして、旧約聖書におけるバベルの塔崩壊後のごとき混乱がほんとうに起きている。20年来、まったく多様かつ互いにまったく異なる諸傾向がひとつの絶え間ない混沌とした革命のなかに雑然と集まっている。私たちはいまだに諸「傾向」にすぎず諸「試行」をつづけており、決定的成功を得ておらず、どの道へ行きつくことになるのかわかっていない。
 大衆は、まったく驚かせられる大音響の讃辞のせいで疲れ切っており、また数多のきわめて深淵かつきわめて学識に富んだ美的改革の計画のせいで威圧されておどおどしており、もはやどの声を聴くべきか、どの道を進むべきかわからなくなっている。しばしば、自分の耳と目がいっそう熱く望むものがなんであったか理解することも認識することもうまくできないのだ。
 他方、若い音楽家たちの精神のなかには、幾世紀にもわたって芸術の規範や基本とされてきたものに対するお気楽な反抗心が浸透しており、少なからず偏見を抱かせている。彼らのための学校は芸術の教科書となる規範を教える能力を持たず、実際に教えてもいない。尊敬される巨匠はいない、とくに世界じゅうの平土間席で大成功を収めた人物は。
 イタリア音楽の将来は、すべての外国音楽の最後尾につけば安泰だと思われている。せいぜい、一部の者が、倣うべき伝統をもたずにルネサンス音楽を模倣する外来の流行を追いかけながら、はるかな過去のイタリア音楽について沈思しているくらいだ。けれどもとくに19世紀ロマン主義は、反対され、戦いをしかけられている。これは大いなる敵というわけだ。新しい音楽家たちの歩みにとって障害となるものは、その歩みの進みかたそのものから生じるだろう。20世紀の代表作は、イタリア国民の音楽的想像力にかけられた重りを表現することになるかもしれない。その想像力は、その重りのせいで、きわめて近代的な探検者たちによって発見された大いなる晴れ渡った空間のなかを、上昇していくことができない。
 何としても大衆は自分たちの自由な感情的衝動を麻痺させる知的隷従の状態から解放されねばならない。若者たちが陥っている過誤から彼らを救ってやらなければならない。あらゆる自由な抒情的感情表現とあらゆる激烈な劇的展開を正当なものとして認めながら、芸術的規律の感覚を彼らに与えてやらなければならない。とくに彼らにこそ、この宣言は向けられている。新たなものを嫌う敵意として冷たい反動を引き起こすことを狙っているのではない。
 私たちは、生のリズムが芸術のリズムと同じようにとどまることのない連続的な推進力の運動であり、また生成変化がたえまなく進行するものであることを知っている。あれやこれやの達成は不連続的にいきなり生じるのではない。そうした達成は「内奥の根底から ab imis fondamentis」不意に発生するのでも創造されるのでもない。一本の観念の鎖が過去を未来へ結びつけている。このため、私たちは私たちの過去のいかなるものをも拒絶する必要を感じないし、また実際に拒絶しない。私たちの過去のいかなるものも、私たち民族の芸術的精神にふさわしくないものはなく、その外部にあるものはない。ガブリエーリ、モンテヴェルディ、パレストリーナ、フレスコバルディ、コレッリ、スカルラッティ、パイジェッロ、チマローザ、ロッシーニ、ヴェルディ、プッチーニは、同じ一本の樹から多岐に分かれた枝であり、イタリア的音楽性の輝かしい多様な開花なのである。そのとおり、私たちはヴェルディについても、プッチーニについても、倣いたいと思っており、直接の後裔になりたいと欲しているのだ。私たちは、客体的音楽に反対する。客体的音楽は、他でもないその音自体のための音のみを表現するのであって、その音を生み出す生命の息吹を表現しないからだ。人間的な内容を持つはずがなく実際に持たないこの芸術に、機械的な戯れと頭でっかちの理屈でしかありえないこの芸術に、私たちは反対する。
 同時代のイタリア人たちよ。私たちは民族の統一と近代国家樹立を始めとする戦いに勝ってきた。そして現在進行中の革命とともにいる。この革命はイタリア精神の不滅をふたたび知らしめ、あらゆるイタリアの力を守り強めるものだ。私たちは、私たちの生きている時代の美を感じ取り、時代の悲劇的瞬間のなかで、また栄光の燃え上がる日々のなかで、その美を歌い上げることを欲するのだ。
 昨日のロマン主義は、かつてイタリアのあらゆる偉人たちのものであったが、いまも喜びと悲しみのなかで生き生きと進行しており、さらにのちには明日のロマン主義となるだろう。歴史が一貫して自らの糸を紡ぐ限り、歴史が自らを見失ってシジフォスの神話のように後戻りするのでない限りは。