典拠:Busoni, Ferruccio. Lettere con il carteggio Busoni-Schönberg. Scelta e note di Antony Beaumont. Edizione italiana riveduta e ampliata da Sergio Sablich. Il carteggio Busoni-Schönberg è curato da Jutta Theurich. Traduzioni di Laura Dallapiccola. Milano, Ricordi-Unicop li, Le Sfere, 1988, pp. 376-377.
訳者名:原口昇平(連絡先
最終更新日:2008年11月03日


〔訳注:ハンス・プフィッツナーは『南ドイツ月刊誌(Suddeutsche Monatshefte)』に『未来派の危険(Futuristengefahr)』と題した論考を連載した。その論考は主としてInsel社版の『音楽に関する新しい美学の構想』に焦点をあわせていた。次の公開書簡はプフィッツナーに対するブゾーニの返答である。〕
 
ハンス・プフィッツナー宛公開書簡      フェッルッチョ・ブゾーニ
 

 チューリッヒ、1917年6月
 
 高名なる友へ、
 
 私の小論に関する私自身の見解を公表させてくださって光栄です。しかし私の文章が抽象的かつ妥協的であって、またいかなる単独の人物も標的としないように保たれていた一方で、あなたはご自分の反論を論争的なものにしつらえました。そしてあなたは公然と唯一の人物に反対し、抽象的なことを個人的かつ時間=空間のなかに規定されたことへ変えてしまいました。
 『未来派の危険』なるタイトルからしてすでに、あなたはご自分の読者をミスリードし、さらに公衆の目前において私の名をまったくの不評と誤解まみれにしました。誤解といいますのは、あなたは偶然にも私とはとてもかけ離れているある一派を痛罵したことになるからです。
 私の小論のどんな箇所にも、「未来主義(futurismo)」なることばはございません。私はこれまで決してあの一派には参加してきませんでした。未来主義、すなわち目下起こっている運動は、私の主張とは一切の関係をもっていたはずがないのです。
 あなたは、私が自らの論述において「美の原則のようなもの」を何ら打ち出さなかった、と不平をもらしておられます。ですが私の論考がもとづいている原理は、まさしく(芸術の自由への困惑というような)一般原則を表明することに背を向けるものだったのです。
 そして、あなたの信じているところによれば、私の掲げた諸問題に関するあなたの見解は、多くの人々にとって当然のものに思われるだろう、というわけです。「こうした人々は、何であれ自分たちと同じ方向性をたどる者から学ぶことを、きっといやがりはしない。」
 しかしまさしくこうした人々のために私の本は書かれたのです。彼らの耳に、ものごとが別の角度でも聞こえるようにするためです。
 私は芸術に関してあなたやあなたの追随者たちに何ら罪を着せませんでした。なのに、他方あなたは私についていい加減でゆがんだイメージを描いてみせました。それも、あなたがご自分の反論を通じてのみ認識している私についてです。
 あなたは、かくも非道な批難を裏付けるものとして、私の唯一の前提に言及すらせずにただ「小論を読んで感じられたおおよその印象に」基づき、私について、過去のあらゆる偉大な作曲家たちを否定し軽蔑する人間だと公然と宣言しました。
 それゆえ、何よりもまずあなたとあなたの読者に、バッハ『平均律クラヴィーア曲集』の私自身による校訂版を思い出していただかねばなりません。断固として、一音たりとも否定的かつ不敬な校訂は見当たらないはずです!
 私が小論10ページにおいて「モーツァルト! 探求と発見の人間、少年の心をそなえた偉大な人間、われわれは彼を称賛し、彼にしたがっている」と大きな声で述べたときにも、そこで表現されている全面的な畏敬の念を、誰も取り違えるはずはないでしょう。
 私は形式を賛美する人間です! この点で私は十分にラテン人でありつづけてきました。しかし私は、あなたが芸術の有機的な性質を求めるのとは異なって、あらゆる理念が自発的に自らの形式をつくりだすことを求めるのです。他方、〔あなたが求めるところの〕有機的な性質は、あらゆる理念に与えられる単一の形式の厳格さに対し、断固としてあらがうものです。今日すでにそうなっていますが、来たるべき時代においてはますますそうなるでしょう!
「立法者たち」(あなたはこの象徴的なことばが誰や何を指しているかたいへんよく理解なさっています)は巨匠たちの創作にもとづいて自らの書法を組み立ててきました。後者〔巨匠たち〕がまず先に立ち、前者はそれに若干離れてついていきます。「創作者たちは、最終的に完璧さのみを目指す。彼らがそれを自らの個性と調和させるとき、ひとつの新しい原則が自発的に生まれてくる」(拙論31ページ)。
 私は「魅力ある少年」たる音楽から、私の強く望むところの予想だにしなかったものが得られると期待しています。つまり全面的に人間的なものと、人間を超えるものです。強く望まれるのはその実現にいたる第一の誘因です。それゆえにいかなる形式がこうした発展をみるかということは決定しえないでしょうし、したくもありません。やがて空を飛ぼうという人間の幾千年もの熱望と同じように、そんな熱望を今日〔すぐに〕可能にする装置について記述することは私にはできませんでした。
 もしも私の希望の対象があなたにジュール・ヴェルヌの小説を思い出させるとしたら、あの本に含まれている技術のファンタジー以上のものが今日達成されるまでになっていることをどうかお忘れなきよう。
 それにしてもあなたは「魅力ある少年」たる音楽の営みの発展をどのように描かれるのですか?
「(10ページ)〔西洋音楽は〕フランドルの乳母に育てられ、丈夫で健康でりっぱに大きな子どもになり、それからイタリアの下宿で幸多かりし時代を生きて、いまや強くて美しい若者は、われらがドイツに150年にわたって住みついている。そこで彼はさらに長いあいだくつろいでいられるよう願っている。」
 きわめて名高い友よ、どうかじっくり考えてみてください。たいへん強く美しい若者ですらも時とともに年老いること、そしてその血統を活気あるものとしておくために確実な方法とは「交配」であることを。
 私はあなたの誠実さを十分すぎるくらい信じています。私が最良の意図と平和の意志とをもって書いたところのものが、あなたによって故意に有害な教理へ変えられるほどに傷つけられてしまったことについてお考えください。ともかく思い違いなのでしょうから、あなたをうやまうべき相手として、この短い便りを公表することこそ私のなすべきことと信じました。