典拠:Casella, Alfredo. Il neoclassicismo mio e altrui, in 《Pègaso. Rassegna di lettere e arti》, I/5, 1929, pp. 576-83.
訳者名:原口昇平(連絡先
最終更新日:2011年12月30日  ※引用の際には典拠、訳者名、URL、最終更新日を必ず明記
 
私と他の人々の新古典主義    アルフレード・カゼッラ
 
 この有名な美学的姿勢についてあらためて語る必要はもうないように思われるかもしれない。《ペガソ》第2号に掲載されたマリオ・カステルヌオーヴォ=テデスコによる素晴らしい文章のあとでは、なおさらである。だがイタリア国外においても少なからぬ評論家たちが私を力ずくでも「新古典主義の作曲家たち」に含めようという考えを持っているので、私の見解を明らかにしておくためにも、与えられたチャンスを私は逃さないようにしたい。
 新古典主義は表面的にはその発端から不合理で何の正当性もない無根拠な芸術運動に見えるかも知れないが、そうではない。今日の素晴らしい評論家たちは、今日のように複雑な時代の精神的苦悩のなかで明確な見通しを示すという重い使命を担っているのに、あまりにもたびたび、新たな方向を模索するあらゆる試みを流行や気まぐれどころか名誉欲のせいにまでしてしまい、始末をつけたものと思い込んでいる。これはものごとを考察するにはあまりにも愚直なやりかたであり、むしろ有害ですらあるかもしれず、そうでなくとも音楽評論家は奇跡的によい場合でもまるで何の力も持たないということが完全にはっきりしている。前述の〔流行、気まぐれ、名誉欲といった〕テーマに帰りながら、実に愚鈍な、またしばしば実に怨恨に満ちた数々の主張が絶えず繰り出されている。だがそうした主張は何よりもまず彼ら自身の側に向けられるべきである。
 新しい「20世紀的」芸術は反ロマン主義的であるとたいへん好意的に書かれるとき、いくらか真実が述べられている。だが19世紀の芸術に対する議論の余地なき現在の反動は、もっとよく特徴づけられるべきだろう。すなわち、ロマン主義の退廃との戦い、より正確にいえばワーグナー以後の1880年から1914年までの時期との戦いである。同じように、今日のイタリアの政治体制は、リソルジメント期の自由主義よりもむしろ近年のその退廃と戦っている。かの自由主義の退廃は、前述の期間を戦後の1922年まで延長すれば、その時期全体とおおよそ対応している。きわめて重要なこの今日の事実は、たとえ反ロマン主義という一般的なこの姿勢がきっと第一印象に比べてあまり深くも根本的でもなかったとしても、またたとえその姿勢がロマン主義のうち最悪の部分を否定しながら結局のところ最良の部分を否定しなかったとしても、いずれにせよ依然として、歴史上ついに獲得されたひとつの評価として認められなければならない。その評価は、時代によってその存在ばかりでなくその大きな重要性までをも裏付けられるだろう。そしてさらに、この大きな「既成事実」を受け入れ、その諸々の源泉、重要性、帰結などを「流行」や「ポーズ」という安易で愚直な結論のなかに矮小化することを取りやめれば、他にもっとよい呼び名を持たないために仕方なく「新古典主義」と定義されているところの芸術運動が本来いかなるきっかけを持っていたのかということについて、もっと容易に研究できるようになる。
 諸々の過ちの責任はロマン主義に帰せられる。過ちのひとつは、「ロドルフォ」*1 のようなボヘミアンの芸術家を生み出したことである。もうひとつ厄介なのは、「神の贈り物」なる芸術〔観〕である。これはお利口なブルジョワジーたちの脳みそのなかの、創作は無自覚的であるべきだという(いまだにわが国の評論家たちを支配している)お上品な考え方を強化した。これは、才能ある人間は同時に申し分なく分別を欠いた輩でもであろうなどと言うのにひとしい。しかし前世紀のさらなる重大な過ちは、19世紀の作曲家たちによる作品のなかにいやというほど認められるように、芸術における規範を廃止しようという要求である。芸術は「自由」でなければならないなどということが信じられていたのだ(この誤った考えと並行するかのように個人の自由という理念が広がったのだが、その理念は今日の世界ではかくもことごとく失敗しつづけている)。
 自由、最も高度な真の自由とは、才ある芸術家が厳しい隷属状態に抗って仕事をするさなかに得るものだ。厳格な多声音楽に立ち向かったパレストリーナや、フーガやパッサカリアに対峙したバッハ、また同様にソナタや交響曲に向かい合ったベートーヴェンたちは、物質に対する精神の全面的な勝利をなしとげた。ジョヴァンニ・パピーニ *2 は自著『第一作品』において、詩における脚韻に関してこう述べた。「この技巧は、神〔という観念と〕と同様に、もしも存在しないなら発明しなくてはならないほど、必然的でなければならない」 そのようにすれば、ひとつひとつが、幾世紀もの時代を通じて造物主に抗して築き上げられてきたところの、魂に救いをもたらすあの石壁の一部となるのだ。あたかもそれは資格を持たない人間による冒涜から〈美〉を守り保護する不可侵の障壁であるかのようだ。
 万一、何らかの規範の否定からもたらされる帰結に関して私自身の主張を裏付ける必要があるとしたら、造形美術の分野から一例を借用して、キュビズムを思い出しておきさえすれば私には足りる。多くの人々(たとえば『メッサッジェーロ』紙の主導者たち、言い換えれば、冷やかしで素晴らしき時代を崩壊させた「20世紀」に対抗しようというあの田舎者の著述家たち)にとって、この時期の絵画はもっぱら病んだ精神の妄想にすぎなかった。ところが、むしろ〔実際には〕キュビズムは印象主義の極度の行き過ぎに関する論理的帰結であって、ある発作的な形式のもとに、印象主義が拒絶した規範や必然性を、すなわち線による意匠、明暗法や質量感といったものを回復しようとしていたのだ。
 そういうわけで芸術の規範への回帰は今から8年前もしくは10年前に当時氾濫していた無秩序から必然的に生まれたということが裏付けられたので、今度は、それが音楽にはどのようにあらわれてきたか、またそれがあらわれたのはいかなる作品、いかなる作曲家であったかということを検討しなければならない。
 つい昨日まで、あるふたりの作曲家を筆頭とするふたつの大きな流れもしくは傾向をたいへん重要視する考え方が、国内外の評論家たちによって受け入れられていた。そこで筆頭とされたのはすなわち、頽廃的で無調へ向かうシェーンベルクと、反動的で全音階へ向かうストラヴィンスキーである。いささか短絡的ではあるものの、そうした区分が誤っていたとはいえない。なぜなら実にここ10年来の音楽の問題は、無調の理論による作品のために古い調性の体系を全面的に廃棄するという恐るべき可能性に対決しながら調性を保守しようとする傾向に内在しているからだ。そしてストラヴィンスキーの偉大さはまさに、野蛮でこのうえなく圧倒的な身振りをともないながら構成やダイナミズムやリズムや客体性といった反印象主義のもろもろの力を再確立したことと、また《トリスタンとイゾルデ》以来危機に瀕していたところの幾世紀にもわたる調性感覚を決定的によみがえらせたことにある。だからこう述べるのは正しい、本誌においてすでにラブローカもカステルヌオーヴォ=テデスコも主張したように、《ペトルーシュカ》や《結婚》や《兵士の物語》はまったく古典的な作品群である。だからこそ、かかる作品群は、それぞれの伝統を通じて、それぞれの構成の様式を通じて、才能と思考の素晴らしい均衡を通じて、生命力をはっきりと年々いっそう増しつつある。この観点のもとでは、かかる作品群がそれぞれ大胆なほど革命的であると見なされるにせよ、ストラヴィンスキーが古典作者と認められうることについて疑問の余地はない。
 ストラヴィンスキーについてはよく知られている。《結婚》(1917)で(彼に電光のような栄光と幸運とをもたらしたところの)いわゆる自らの「赤の様式」の頂点に到達すると、彼はこの様式に固執することはもはやできないことを自覚した。彼の研鑽はあの表現語法へと到達するのだ、その研鑽こそが、新たな仕事のたびにあのように自己を更新しなおしてきて、しかしいまや自らの限界へ達したために様式の変更ないし放棄を彼に迫っていたのである。同様の悲劇的なジレンマに直面しながらロッシーニは闘いを放棄した。しかしストラヴィンスキーはその闘いを引き受けたのだ。そして前述のようにしだいに生まれてきたあの彼自身の様式は、「客体的」あるいは「新古典主義的」と定義された。
 こうしたストラヴィンスキーの新たな姿勢が真摯なものかどうか疑わしいという声は多数上がっている。しかし私は断固としてこの真摯さを信じる。なぜならこのたいへん物議を醸してきた姿勢は――今日でははっきりしていることだが――気まぐれでもなく、計算にもとづいた出世欲による結果でもなかったからだ。さらにむきだしの、さらに総合的な、さらに知的な、さらに高尚かつ抽象的な芸術へ向かっていくストラヴィンスキーの発展ぶりは、完全に論理一貫しており、彼の先人たちからもたらされたものだ。
 さて残る問題は、《エジプトの王》や《ミューズを連れたアポロ》が彼の「赤の様式」の時期の作品にふさわしいものかどうかということである。これについては私は敢えて断言しない。そうした作品群のなかに《ペトルーシュカ》や《春の祭典》の根本にある自然の獣の力のようにあの強く抗いがたい恐るべきエネルギーに相当するものを探したとしてもむだだろう。《エジプトの王》においてもまた《アポロ》においても、古典主義は作者の計画的な目標であるかのように思われるが、他方でそれが技巧的素質とまったく平和に共存する思考から無意識的かつ不可避的に生み出されたようには思われない。音楽の題材は、かつてのストラヴィンスキーにおいてすでにあのように純粋で均質であったが、ここでは不安にさせられるような混合物にとって代わられてしまう。その混合物のなかにはヘンデル、リュリ、チャイコフスキー、ベッリーニ、ドリーブ、ヴェルディさえもが、さらに少なからず他のものまでが対立しあっている。たとえ《ペトルーシュカ》や《結婚》といった労作のなかでと同じくらい技術が完璧であるにせよ、その技術はここではくすんだ粗悪な対位法をともなって、まるで好事家によるもののような外観によってあらわされている。その外観は、ストラヴィンスキーのような鍛え抜かれた専門家によってこしらえられているのに、少なくともどっちつかずなままになってしまっている。これこそ音楽に関する最新の教えだとは言えるかもしれない。だが、私の思うに、これほど調和にとぼしく雑多で放縦な芸術は、じつに異なる考えをもった古典主義的つまりイタリア的な人間には、留保もなく受け入れられはしないだろう。
 パリを拠点として、近年のストラヴィンスキーの作品を無条件に高く賛美する声がせわしなく上がった。プルニエール、ド・シュレゼール、クーロワ、 ルリエ、シェフナーその他大勢が性急に次のように言ったのだ。ひとりのロシア人による作品のなかではあるがパリで新古典主義がついに生まれた、そしてその光は世界に向けてその〔世界の〕天然の頭脳から放射されていくのだ、その頭脳はパリの他ではないうえに他ではありえない、と。
 しかし、国粋主義的なものから審美的なものまであらわれているこうした数々の示威声明を、真剣に捉えすぎるべきではない。もちろん偉大な天才的人物からそのような光は発されるだろうが、しかし彼らのパリ中心主義という象牙の塔のなかはあまりにも窮屈だ(かかる批評家たちが、プーランク《牡鹿》やオーリック《うるさがた》を音楽史の里程標だなどとのたまって恥じなかった面々と同一人物であることを忘れてはならない)。むしろ、ストラヴィンスキーの新たな姿勢と似た傾向が他の国において同時発生的に存在していないのか、また同じように、そうした傾向がストラヴィンスキーの姿勢に由来するのか、そうではなくて独立して自発的に生じているのか、検討するべきだ。
 オネゲルはどうか……
 スイス人でありながら作法にかけてはフランス人の若者である彼の人物像に関しては、今日ではよく知られるところである。彼もまた新古典主義の隊列に加えられるだろう。ストラヴィンスキーをも凌ぐ傑出した彼の感覚や、きわめて強靭な技巧や、厳正なる多声音楽を目指す傾向は、すべて一致して、今日音楽に携わる多数の人々のなかで彼の姿を際立たせている。しかしオネゲルの芸術はストラヴィンスキーのそれから生まれたものではまったくない。それよりも明白にドイツの古典に由来しており、その大部分を〔リヒャルト・〕シュトラウスが、そして少しばかりワーグナーが占めている。とはいえ、そこにはかかるゲルマン的な源泉と同時に他にもフランス的な源泉も認められる。すなわちフォーレやフロラン・シュミットである。ともかく率直に言ってオネゲルはストラヴィンスキーの「帰結」であるなどと主張することはできない。なんなら、あえて遠まわしにこう言ってもいい。〔ストラヴィンスキー〕《エジプトの王》という題材の選択は、何年も先立つ〔オネゲルの〕《ダヴィデ王》の成功と、おそらく無関係ではない……
 今日のドイツは偉大なる音楽家をひとり数えるのみである(とはいえクルト・ヴァイルやエルンスト・クレネックが天分を欠いていると言いたいのではない、ただそれでもその二人は即座に大成功を得ようとして苦悶しているかのように見える)。その唯一の大音楽家とはパウル・ヒンデミットのことだ。この、音楽に誠実な活力あふれる職人であり、この上なく反ロマン主義的であり、実に長年あらわれなかったほど傑出した多声音楽の作り手であるヒンデミットは、今日、彼の祖国どころか世界の最も真正なる音楽の力のひとつを代表している。カステルヌオーヴォ=テデスコが本誌ですでに適切に述べたとおり、彼のなかにだけ、バッハの魂が蘇っていると言いうる。もちろんこれまで長年にわたって音楽史上に腐るほど登場してきたばか正直で粗悪な模造という意味ではなく、むしろ最大限のさり気なさをもって多声音楽的に「語る」才能においてである。だからついこう考えてしまうのだ。近年のストラヴィンスキーによるぎこちなく粗削りな対位法と、あの若いドイツ人による柔軟かつ動的なうえに簡潔な対位法とのあいだには、ベートーヴェンによる「がむしゃらに勉強したかのような」多声音楽とバッハによる奇蹟のような多声音楽とのあいだにある差異と同じものが横たわっているのではないか。ヒンデミットは彼の人種の偉大なる過去から論理的帰結として生まれた人物なのだ。彼においては、思考と技術的手法と形式とが完全に調和している。おそらくこれまで彼を賛美する者たちの誰ひとりとして自身を古典として示すことを考えてこなかったためか、彼は自ら古典となる蓋然性をまことに強く備えており、ことによるとすでにそうなっているのかも知れない……
(きっと諸外国の他の作曲家たちについても私の論考の支えとして少なからず言及するべきだろう、たとえばプロコフィエフについてだ。しかし私は自分の祖国の事情へと速やかに論を運ばざるをえないため、広く了解済みのことと確信しながら先を急ぐことにしよう。)
 新古典主義は近年のイタリアにもまたはっきりあらわれてきた。絵画においては、新古典主義はいわゆる20世紀的風潮と呼ばれるものの大部分を占めている。彫刻においては、それはクイリーノ・ルッジェーリ *3 による芸術のようなもっとも重要な結果をすでにもたらしていた。音楽においてはどうか……。
 音楽について、今回私は謙虚さを捨てて私自身について語らねばなるまい。近年、私は外国ばかりでなく祖国においてもまた純粋音楽への回帰という責務を担ってきた。かかる責務に関する話にイルデブランド・ピッツェッティは耳を貸そうとしないが、しかしそれでも高貴で晴朗な真の音楽とはロマン主義的かつメロドラマ的な感傷的傾向から解放されたものなのである。だが、最近の私の芸術に関して人々の行ってきた説明は必ずしも正当であるとはいえない。私が作品ごとに外観や様式を変えると断言しては私の絶え間ない変質について語るあの批評家たちを度外視すれば、〔アルフレート・〕アインシュタイン *4 や ガスコ *5 のようなタイプの人々が残るが、彼らは気楽でまた性急なあまりに、やれカゼッラの新古典主義はストラヴィンスキーに由来しているだの、やれカゼッラはだから麗しき紳士の皆様方のように単にパリの流行を追いかけているにすぎないなどと述べている(パリでは、シェフナー氏にいたっては、昨年、私の《スカルラッティアーナ》がプーランクの《牡鹿》の帰結であるなどとさえ書いた!)
 なぜ私がイタリアの内外で「新古典主義者」なる洗礼名を与えられているのか、私にはわからない。ひとは、私と同年代の人々がみなロマン主義および戦前〔第一次世界大戦前〕の叙情主義とにいまだに属していると確信している。その世代全体のなかで私だけがかような精神性を克服しえているなどと述べることは、私にはできそうにない。まして私は、私の仲間たちに対する優越性を示す論拠を持ち出すふりもしたくない。その仲間たちを私はとても尊敬しており、周知のとおり私は世界中で私の最良の仲間たちを擁護してきた。ただ青年時代の初めからずっと私の偏愛は最も純粋かつ最も厳格な音楽のほうへと傾いていた。つまりバッハ、ヘンデル、ベートーヴェンのものだ。気質のせいで、私の好みはいつも古典的芸術へと向かい、ロマン主義的芸術にはほとんど感化されなかった。こうした隔世遺伝的な理性によって、また私の両親から厳格な音楽教育を受けたことによって、少なくとも部分的には、古典主義に対するこの私の長年の傾倒について説明することができる。
 近ごろ、外国の、正確にはパリの(したがってイタリアのものに対して過度に甘くはない)批評家の記したところによれば、近代のイタリア音楽はとうとう「ロッシーニの笑いを学びなおした (réappris le rire rossinien) 」といい、この再生に関する最大の勲功はこの私にあったという。私にはよくわからない。ただ言いうることは次のようなことだ。構成的な、動的な、軽快な、しなやかな、同時に厳格かつ叙事詩的な(喜劇の力 vis comica ともいいうる)方向への発展が今日の音楽にとって必要だという考えは、かつて私がイタリアにおいて20年前に何度も示していたところの根本にあったものなのだ。
 いまや私は率直に告白しなければならないだろう、私はこれまで一度も古典主義者にも新古典主義者にもなろうとしなかった。しかし私の思うに、今日の音楽は、もしも真に生まれ変わり国民的かつ世界的な力となろうとするならば、たくさんの偉大な富を含むわれわれの18世紀をやむを得ず捨てるというのではなく、ロマン主義以前のイタリアの過去のなかに新たな足場を求めていかなければならないのだ。
 またこうも表明しなければならないだろう、仮にここ10年間の私の芸術が真の伝統的なイタリア性を取り違えようもなく持つがゆえに結果として古典主義的にみえのならば、それは私が苦労しながら時間をかけて明晰さを追及しつづけたことの結果である。その努力こそが私の創作者としての力を少しずつ成熟の段階まで導いたのであって、にも拘らずその成熟の原因を近年のストラヴィンスキーの姿勢に帰するとすればいささかおめでたいのではなかろうか。本当のところは、近年のストラヴィンスキーこそわれわれの民族の過去を熱心に学ぶことに着手していたのだ。ペルゴレーシに範をとったストラヴィンスキーの《プルチネッラ》がそのことを十分証明するであろう。
 ストラヴィンスキーの影響はわれわれにとってはとてもわずかでしかない。ましてやシェーンベルクの影響など皆無だ。ストラヴィンスキーの芸術とわれわれの最も進歩的な音楽とのあいだに血縁関係があることは否定できない。しかしそれらは時代のあらわれであって、時代はきわめて多様な諸様式を共存させているものだ。バッハやスカルラッティやヘンデルやラモーの音楽は、根本的に多様であって時には敵対さえしているが、今日のわれわれにとってはまとめてバロック時代の明白な諸特徴を示すもののように思われるだろう? とはいえストラヴィンスキー主義に関する非難はきっぱりと軽蔑をもって排斥されなければならない。そうした非難を国内外の幾人かの著作家がしつこくつづけているが、かかる非難はイタリア音楽の諸傾向のなかでももっとも若々しいものに向かって投げつけられているのだ。
 しばしばひとから言われることだが、私の行くところならばどこでも、ひとはうんざりするような音楽を耳にしないという。そうであってほしいものだ。そしてもしもいつか、ある種の「神の懲罰たる音楽」を私の祖国から取り除くことが私にできるなら、あるいは少なくともそのことに私がしっかりと貢献できるなら、そのときこそ私は安らかに瞳を閉じることができるだろう。
 厳格さについて私は若者たちに長年教えている。それは自然に生じるみずみずしい晴朗さの表現というよりもむしろ硬直した規律に見えるだろう。その厳格さと、軽薄な意味での今回の信仰宣言とは、表面的に矛盾するのではないか。ひとはそう指摘するかもしれない。
 だがこの表面的な矛盾によってこそ多くの芸術家たちの行動が生まれてきたのだ。こういった問題について、ヴェルディを例として挙げさせてもらいたい。ヴェルディはあるときあの有名な文章を書きつけた。いわく、「大衆を楽しませる」という考え方が彼の両頬を怒りで紅潮させたことがあったというのだ。しかしただちにこう記しておかなければならない、ヴェルディは善を説きながら悪を追求してしまったのだ、なぜなら実際に彼はひとを退屈させるオペラを一作たりとも書きはしなかったのだから……。
 要するに私の信じるところ、イタリア音楽は今日ヨーロッパの中でもうらやむべき独立状態に達しているのだ。われわれの音楽のなかには、今日のイタリア精神のあらゆる顕現におけるのと同様に、伝統と近代性のしっかりした均衡が徐々に達成されつつある。しかるのちにこうした新しい音楽芸術が古典的な諸特徴を持つとすれば、それは明日のわれわれイタリア人にとって自然なことなのだ。しかしこの古典主義は計画の結果ではないはずだ。だとすればそれはただストラヴィンスキー風の擬似的な古典主義に類似しかねないだろう。それゆえに、いまだにあまりにも多くの若者たちに好まれているところの教条的で幼稚な演習をただちにやめることが望ましい。いまや新たなイタリア音楽の道が、たとえ容易に通っていけるようなものではないにせよ、はっきりと描き出されたことは確かだ。そもそもあの称賛に値する遺作がその道を指し示していたのであって、われわれは今日ようやく両手を震わせてその遺作を開くことになった。ブッセート出身のあの老人 *6 による《ファルスタッフ》だ。無数の証拠からすでに了承されているだろうが、ヴェルディの教えは十全に納得のいくものなのだ。
 音楽面でイタリアはもうひとつの課題にも直面している。それとは、今日これほどまでに深刻に傷つけられてしまっている音楽における〈美〉を再構築し、ロマン主義の過ちによってあれ以来消え失せてしまっていたあの調和、あの完全さ、あの厳格さ、あの精神的幸福を音楽芸術のなかに復活させるという課題だ。まさしくあの至高の諸価値を認識すれば、われわれの音楽は、多かれ少なかれ身勝手な自己の要求ばかりでなく、われわれの人種の歴史的精神すなわちかつて常に良識と文明の使者であった精神に強く合致した役割をも果たすだろう。ただそのときにおいてのみ、この新たな芸術、「われわれのもの」となるにちがいないこの芸術が、今日かように痛ましくも遠くに見えている群集のほうへと、もう一度かつてのように芸術家を近づけうるだろう。
 私は次のことを証明できたと信じている。すなわち、この現在のイタリア音楽の傾向が、新古典主義と呼ばれるべきところのものであり、また人類の思想の最も優れていた時代におけるいくらかの貴い理想への渇望を拒まないものであって、幾人かの批評家たちのはっきりと信じているところよりもずっと重要で深い教えであるということを。そしてまた、単に気取って外来の語法に盲従しようという姿勢として過少評価しようとすることが、いかに空しくばかげているかということを……



訳者による後注 
*1 プッチーニのオペラ《ラ・ボエーム》(1896)の主な登場人物のひとり。ボヘミアン的な芸術家像の代表例。
*2 ジョヴァンニ・パピーニ(1881-1956)イタリアの作家、詩人。『第一作品』(1917)は未来派時代の詩集。
*3 クイリーノ・ルッジェーリ(1883-1955)イタリアの彫刻家。幼少時より移民として国外で生活していたが1920年代初頭にイタリアへ帰国してローマに移り住み、洋裁で培った人体構造に関する知識を生かして彫刻を学んだ。そしてヴァローリ・プラスティーチ誌のグループに参加し、そこで美術評論家ロベルト・ロンギに激賞された。同グループは、ギリシャはもちろんメソポタミア・エジプト・エトルリアなど遠い古代の文化や14・15世紀のイタリア文化のなかに、20世紀前半の前衛たちの熱狂的な表現語法と対立するそれを創造するための省察の動機を探求しており、そしてルッジェーリはその思想に同調していた。かような要求をもって彼は「秩序への回帰」と呼ばれたところの当時の汎ヨーロッパ的現象のなかへと身を投じていった。
*4 アルフレート・アインシュタイン(1880-1952)ドイツの音楽学者。モーツァルト研究で有名。理論物理学者アルベルト・アインシュタインの従弟。
*5 アルベルト・ガスコ(1879-1938)イタリアの音楽学者。
*6 ジュゼッペ・ヴェルディ(1813-1900)のことを指す。ブッセートは彼の生誕の地である。