典拠: Ferraris, Maurizio. Manifesto del New Realism. Su "Repubblica" l'8 agosto 2011.
訳者名:原口昇平(連絡先
最終更新日:2011年12月30日
 
新実在論宣言    マウリツィオ・フェッラーリス
 


  幽霊がヨーロッパ中を彷徨している。その幽霊とは、私が「新しい実在論 New Realism 」*1と呼ぶことを提唱しているところのものだ。それはまた来春ボンで開催される予定の国際会議の主題ともなっている。私は、マルクス・ガブリエル Markus Gabriel (ボン大学) および ペタル・ボヤニッチ Petar Bojanič (ベオグラード大学)という若い同僚ふたりとともにその主催者をつとめている。会議にはポール・ボゴシアン Paul Boghossian、ウンベルト・エーコ Umberto Eco、ジョン・サール John Searle など著名人が参加することになっている。この会議の目的は、哲学、政治、日常生活における「実在論/現実主義 realismo 」を取り上げる空間を再構築することにある。ポストモダンの世界では、実在論は哲学的無知であり政治的保守主義の顕示であると見なされてきた。実在性すなわち現実 la realtà は、解釈学ならびに「弱い思考 il pensiero debole 」*2 の時代には、それらの考え方によれば、われわれの思考や感覚を介しているために決して接近しえないものであると言われていた。現実の名に訴えることは、「想像力を権力に l'imagination au pouvoir 」*3という最悪のスローガンにまだ縛られていた時代においては、哲学的に根拠を欠いていることだけでなく、何も変えたくないと欲していることや世界をあるがままに受け入れることであるかのように思われていた。
 ポストモダニストたちの確信をぐらつかせるのに寄与したのは何よりもまず政治であった。マス・メディア的ポピュリズムという想像的なものとはまったく言えない状況が到来し、ただいたずらに現実を放棄することがならわしとなった。しかし真実 la verità という観念を見境なく使用することについては議論されず、それがブッシュ政権にとってはイデオロギーおよび「帝国」の構築へとつながり、かの政権は大量破壊兵器の存在に関する証拠を捏造したうえでそれに基づいて戦争を勃発させたのである。私たちは、テレビニュースや政治関連番組のなかで、「事実 fatti はない、解釈だけがある」というニーチェ Nietsze の原理が君臨する様子を目の当たりにした。その原理は、数年前には哲学者たちが解放のための方策として主唱していたものであり、実際には言いたいことを言いやりたいことをやるための正当化の言いわけとしての様相を呈してしまった。かくしてニーチェの格言の真に意味するところが明らかになった。すなわち、「最強者の理屈こそが至上の理屈とされる」*4というわけだ。私の思うに、こうしたこともあって、哲学的実在論の回復の要請が20世紀末から強まってきたのだ。
 新しい実在論は実際のところある素朴な問いから生まれている。近代 la modernità が液状化する*5もしくは後-近代 la postmodernità が気体化すると言われるがそれは真実であるのか、それとも単にイデオロギーの表現であるのか? それは、私たちは非物質の世界へ突入した、コンピューターの陥る懸念すべき問題にともに取り組もう、などと言われるときに少し似ている。この観点から、ありのままの世界はいったん把握されるとすべて社会的に構築されるとする見解の批判のなかに最初の根本的な動きが認められる。かつ、ジョン・サール『社会的現実の構造 The Construction of Social Reality 』(1995) は転換点であったといえる。イタリアでは、エーコ『カントとカモノハシ Kant e l'ornitorinco 』(1997) によってそのきっかけが訪れた。この書物は当然の帰結として現実のなかに「固い土台」を見出し、1990年代初頭『解釈の諸限界 I limiti dell'interpretazione 』とともに始められた議論を完結させていた。あの時期に絶えず美学が幻想の哲学としてではなく知覚の哲学として見直されたという事実は、外的世界すなわち諸概念の枠組みの外側にある現実に関する新たな有効性を示した。そして、現実が、ただ省察の力のみによっては錯覚を修正しえず私たちを取り巻く客体の様相を変更しえないからこそ、概念の枠組みから独立していることを明らかにしたのだ。
 このように外的世界へより大きな注意を向けることは、真実という概念の復権にもつながる。こちらについては、ポストモダニストたちは、使いつくされたものと見なし、例えば連帯 solidarieta に比べて重要でないかのように考えていた。そして、私たちの日々の実践において真実がどれほど重要であるかということを、また真実がどれほど現実と密接に結びついているかということを考慮しなかった。誰かが医者へ行ったとする。このとき、医者との連帯を得ることは確かに幸福ではあるかもしれないが、しかし何にもまして必要なことは自らの健康状態について真正な回答を得ることである。そしてその回答が多かれ少なかれ創造的な解釈にとどまることは許されない。むしろ、外的世界に、この場合患者の心身にみられる何らかの現実に一致していなければならない。このためにこそ、ポール・ボゴシアン Paul Boghossian 『知の不安 Fear of Knowledge 』(2006) やディエゴ・マルコーニ Diego Marconi 『真実へ向けて Per la verità 』(2007) のような作品において、真実は相対的な観念であって私たちが世界に接近する際の諸概念の枠組みにすっかり依存しているという主張に対し、反論が提起されてきたのだ。この問題圏においてこそ、新しい実在論のキー・ワードは定義される。そのキー・ワードとは、存在論 Ontologia 、批判 Critica、啓蒙 Illuminismo である。
 存在論というのは、単に、世界は諸法則を有し、それらを遵守させるということを意味する。ポストモダニストたちの誤りは、存在論と認識論との初歩的な混同に基づいていた。存在するものと、存在するものに関して私たちの知っていることとを混同していたのだ。水が H2O であることを知るためには、私は、もちろん、言語能力、諸概念の枠組み、カテゴリーを必要とする。しかし私が知っていようと知っていまいと、水は濡らし炎は燃える。言語能力やカテゴリとは無関係に、である。それらに影響されないものが、ある点に存在するのだ。それは、私が「修正不可能性 inemendabilità 」と呼ぶところのものであり、実在の重要な性質である。それは、確かにある種の制限となりうるが、同時に、現実と夢とを、また科学と魔法とを区別することを可能せしめる足場をもたらすのだ。
 次に批判について述べる。ポストモダニストたちの主張によれば、反実在論こそ、そして障壁を乗り越える心こそが、解放を実現するという。しかし明らかにそうではない。なぜなら、実在論はただちに批判的である(「諸事物はかくある」という確認は容認ではない!)が、他方で反実在論はある問題をもたらすからだ。事実は存在せず解釈だけがあるのだと仮にあなたが考えるとするなら、では、あなたがまさに世界を変化させているのであって単に世界の変化を夢想しているのではないということをあなたはどうやって証明するのか。実在論にこそ批判は内在しており、反実在論には子どもを夢に誘うべく語られるおとぎ話への盲従が習慣づけられているのだ。
 最後に啓蒙について述べる。近年の変遷はハーバーマス Habermas による状況分析を裏付けた。30年前、彼は、ポストモダニズムのなかに、反啓蒙主義の潮流を見出していた*6。啓蒙は、かつてカントの述べたように、敢えて知ることであり、人間が自ら招いた未成年状態から抜け出ることである*7。この観点から、啓蒙は、人間性、知、進歩に信頼を置くこと、そしてそこに陣取ることを今日もなお要求している。人間性は救済されなければならず、それはかつてもこれからも一柱の神にはなしえないだろう。必要なのは知、真実、そして現実である。ポストモダンの思想やポピュリズムの政治がしてきたようにそれらに盲従するのではなく、あの大審問官*8によって提示されるところの常に可能な別の解決を追究するのだ。すなわち、奇跡、神秘、権威の道を追究することである。



訳者による後注 
*1 New Realism という英語の用語が掲げられている理由については、積極的なものから消極的なものまでいくつか考えられる。ここでは消極的な理由をひとつ挙げるにとどめるが、 1940-50年代の文学や映画に広くみられた傾向に関する Neorealismo というイタリア語の美学用語との混同を避ける目的もあるように思われる。
*2 ジャンニ・ヴァッティモ Gianni Vattimo (1936-) の思想。「すべては解釈である」というニーチェの考えから出発し、絶対的な起源や基礎付けを要求する「強い思考」を批判しながら、解釈の多元性を積極的に引き受ける「弱い思考」を提起している。
*3 1968年5月革命においてパリの路上に残された有名な落書き。
*4 ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ Jean De La Fontaine (1621-1695) の格言。
*5 ジグムント・バウマン Zygmunt Bauman (1925-) は、近代社会のなかに、個人を共同体から解放する(個人の権利や自由を擁護する)作用と、個人を共同体に束縛する(個人を国家や企業に従属させる)反作用とを認め、後者の傾向の強かったかつてを「固形的近代solid modernity 」と見なす一方で、前者の傾向の強まった近年を「液状的近代 liquid modernity 」と表現した。
*6 1980年9月フランクフルトにおけるユルゲン・ハーバーマス Jurgen Habermas のアドルノ賞受賞記念講演「近代 未完のプロジェクト Die Moderne?ein unvollendetes Projekt」(三島憲一訳、岩波現代文庫)を参照。
*7 イマヌエル・カント Immanuel Kant 『啓蒙とは何か Was ist Aufklarung 』(1784)を参照。
*8 フョードル・ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』(1879-1880)第2部第5編5を参照。