眠れません。眠れない夜にかつて幾度あなたのことばに触れたでしょうか。
 あなたの言葉がはじめてわたしの眼のなかへ住みついたのは何年も前になります。当時あなたは京都にいて、骨折やらなにやらでしばらく入院し、それから退院してきたばかりだと言っていました。しばらく週にニ、三度はあなたの詩を読んでいました。感想を書くと、それがときには辛辣に響いただろうはずなのに、あなたは真摯に応えてくれました。わたしの文体から受ける印象は真摯なものだとあなたは言ってくれましたが、それはあなた自身に向けられるべきことばでした。むしろわたしはいつもあなたの態度に学ぼうとしていたのでした。
 あなたが名前を変えて活動するようになってからは、しばらく見逃していましたが、ようやくわたしがあなたに気付くと、また感想などやりとりして、のち、あなたは詩や批評を書くのを一度辞めてしまいました、そしてまたわたしはあなたのことを見失いました。
 あとになってあなたは、それまでの時期にわたしのことを兄と慕っていた、そう語ってくれましたが、みたびまみえてからは、以前のような親しいやりとりはあまりありませんでした。
 今年の七月ニ日、ことばのうえでは数年来のお付き合いだったというのに、対面したのははじめてという奇妙な状況で、あなたと握手することができました。残念ながら、ほんとうに口惜しいことに、わたしはあなたの手の感触を思い出すことができません。それが大きな手だったのかどうか、骨ばっていたのかどうか、力が込められていたのかどうか、それすらもわからないのです。そしてその二日後のことでした。その日から、あなたのその手を思い出すことが、わたしのこれからの生に課せられた問いのひとつとなりました。
 あなたの手になる一冊の短篇小説集がわたしの手元に遺されました。あなたがここを去ったとき、わたしは数週間以内にその作品集についての批評を書くとお伝えしたつもりでした。けれどあなたは待っていてくださらなかったようです。わたしのことばにそれほどちからのないことは十分に知っていました。そしてわたし自身、いまのいまになるまで何も書けないままです。だからはじめからわたしにあなたを引き止めることはできなかった。あなたの手を握ることはできても、こちらへ引っ張ることはできなかった。あなたはあなたの意志で駆け抜けたのです。そこにはブレーキがありませんでした、いえ、……
 ブレーキ。
「運転者が危険を察知してから、ブレーキが利き始めるまでの間に、車が走る距離を空走距離といいます」
「空走距離は、車の速度に比例します」
 あなたの小説のなかでもっとも核心に近いことがいわれているとき、それはいつも「僕」本人の口からではありませんでした。教習所でのこの授業が終わってからつづけられた「僕」の考察はしばらくすると中断され、意識はこのあとすれ違う「少女」へ向かっていきます。
 が、わたしはあえて「僕」のつづきから思考を始めてみることにします。「車の速度をどこまでも上げると、空走距離はどうなるのだろうか。それが臨界点以上に引き伸ばされることで、車が空白地帯を突き抜ける、なんてことは起こらないのだろうか。」そして、空走距離が「車の速度に比例」するというのならば、有限値であらわされる速度ではなく、無限の速度で車が走っていたらどうか。そうすれば「運転者が危険を察知してから、ブレーキが」踏まれる瞬間……その瞬間は無限の彼方へ先送られ、そしてその瞬間までのどの地点においても、運転者の意識と車のボディとがかみあわない、統御の利かない貫通運動があらわれるのではないだろうか。そもそも、意識と身体のありようが一致しない、「僕もいない僕の部屋を」「眺めてい」る「僕」について語る(僕)という、(p.5以降何度も反復される)際限のない乖離状態があらわれたのは、この無限の空走距離上においてではなかったか。「僕」の……いや、あなたの「部屋」におけるあなたの不在が、あなたの無限の速度を証明しているのではないか。
 その貫通運動の果ての光景を「僕」は語っている(pp.22〜23)。だが、話者としての「僕」におさまりきらないあなた、あなた自身が見たものは語られたのか。それはなんだったのか。なんだったのですか。あなたがこの世の青い青い無限の空走の果てに見たものとはなんだったのでしょうか。……
 この問いのあいだに、夜が白み始めました。いまやわたしの不眠も溶けかけて、まどろみのなかへ沈み込もうとしています。けれどそこでもわたしはあなたの手を探そうとするでしょう。あなたがたった一度だけわたしに差し出した手を。この問いの答えは、あなたのその手に、にぎられていたはずだから。





 本文中の引用は増田考志「空走距離」から。頁数は増田考志『Sir-etok』(大阪、パレード、2006.5)のものを指す。
「あらゆるものの届くところにいるということはあらゆるものを受け入れることができるということなのです」――ビアンカ・カサリーニ・アガンベンがジョルジョ・アガンベンに
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